数学に関する見解


|| 人間のために「正しさ」を決定していく道具

使い手が「人間」である、思考のための『道具』。

それが数学の本質と言って良いでしょう。

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目次

 

・そもそも数学とはなんなのか

 

 

・どうして数学は難しく感じられるのか

   難しくなってしまった心当たり

 

 

・なぜ数学は完全で不完全な道具なのか

 

   数学の完全さ

   数学の不完全さ

      人は結果しか認識できない

      人は概念を完璧に共有できない

 

      数学と意思伝達

         概念を伝達する記号の話

         誤解の余地がほぼ確実に無い記号の話

 

 

・数学と科学の関係

・数学と哲学の関係

 

 

・どうして数学は正しさを決めていけるのか

   思考の道具としての数学

   数学と客観性

 

 

・では、どう数学を扱えば良いのか

   数学と疑うことと否定すること

      数学と印象操作

 

 

 

 

 


数学って?

 

|| 正しさを決めていく指標

これは一言で言うと、『人の考え方』のことです。

別の言い方をするなら↓みたいな感じでしょうか。

 

 

『人間が当然に感じられる操作』を『形式化』して『考察』した成果

 

 

要は単なる『当たり前の積み重ね』から分かることで、

この「当たり前」を『公理』やら『定理』と言うわけです。

ここに「人の決めたルール」である『定義』も加わります。

 

 

そして『考える』ために「論証」も形式化されています。

具体的には『推論規則』をまとめた「証明論」というものが。

 

 

それに『形式化』するってことは「記号を統一」するってことなので、

それ用の使い勝手が良い言語として「一階述語論理」が存在します。

(五十音文字やアルファベットみたいなものです)

 

 

 

で、『公理』『定義』『定理』はこの「言語」で翻訳されてます。

ただし、その本質は『形式化されたもの』ではありません

 

 

あくまで「形式化」は『記号で統一的に表す』という手段であって、

第一には、それを行う理由として、

主張したいこと」が存在しています。

 

 

そうです。

断じて『形式から』ではありません

『人が理解してること』が先にあって、それを形式化してるんです。

 

 

 

こんな感じに、これら『当たり前』を出発点として、

『正しいものだけ積み上げていってるもの』が、数学なんですね。

 

 

 

そう、正しいものを人が積み上げていった集大成が、数学なんです。

なら、数学は『人の、正しさの考え方』だと、そう言えるでしょう。

 

 

後述しますが、これは「科学」も「哲学」も同様です。

これらもまた『人の正しさの考え方』の一つになります。

 

 

 

 

 

結論としては以上ですが、

↑みたいな堅い言い回しだとちょっと難しく感じますね。

 

 

もうちょっと分かりやすくしたいんで、

直観に近くなるよう、もっと具体的な話をしてみましょうか。

 

 

まず、なにを「考える」にしても『正しさ』がなければ曖昧ですよね。

じゃないと考えた結果の着地点も無ければ出発点すら無いわけですし。

 

 

となると必然的に『正しい・変』の 2 択は必要になるわけでして。

であるなら、これは『 2 択』という面で数学の領域に含まれます。

(具体的には命題論理とかに含まれます)

 

 

 

ただ、これではまだ実感しにくいですよね?

学校で習った感じだと、数学っぽくないと感じてしまうでしょう。

 

 

言ってることとしては、

これは単に『 0,1 の操作』って話なんですけど、

いや、そもそも、なんでこれが数学なんだって話なわけで。

 

 

 

結論としては、

これは『数』という言葉の意味の広さの問題になります。

 

 

というのも、本来の「数の意味」は『比較できるもの』で、

結果として、これは『 0,1 で全て表せる』んです。

 

 

そう、つまり「多くの人にとっての数」である、

0,1,2,3,... という数字」ですが、実はこれだけではありません。

 

 

はい、数字は実際に数なわけですが、

実はこれ、あくまで「数の1つ」でしかないんですよ。

 

 

 

というのも、例えば「数としての 2 」は、

「演算子 + 」を使って「 1+1 と定義されている」ものなわけで、

逆に言えば、こういう感じじゃない 2 は数と呼べるか分かりません。

 

 

なぜなら「 1 の後者」「 1 より大きいもの」ではないなら、

その 2 は「ただの文字・記号」で、なにとも比較ができません。

となると、はて、それは数なんでしょうか?

 

 

とまあこんな感じで、

数字が数かどうかというのも、あくまで定義次第。

つまり『比較できるかどうか』なんですよ。

 

 

 

そして肝心の『比較』ですが、

これはざっと言うと「ある 2 つの区別ができるかどうか」って話。

 

 

例えば「どっちが大きいか」とか、そういうのが分かる感じで、

他にも「内と外」とか「上か下か」とかも、

なにか 2 つを比べることができますよね?

 

 

要はこういう話で、

つまり『比較ができるパラメータを持つもの』は、

軒並み「数」と言えてしまいます。

 

 

 

とまあこんな感じで、意外なものだと、

実は「何かを決める」ことにもまた『数』は絡んでいます。

(そんなに以外ではないかも?)

 

 

 

 

 

・意思決定のケースその 1

 

いわゆる一般的な「答えを出す問題」について。

 

 

例えば『単純な問題を解く』とき、

2×5 の正しい答えを出す」なら、

10 」という答えが正解ですよね。

 

 

そう、つまるところ、

10 以外は正解ではないわけです。

 

 

つまりこの場合、人は問題を見て「 10 が正解」だと判断して、

そして「正解」を答えています。

そう、つまり「正解を選んでいる」わけですね。

 

 

間違う場合でもこれは同じです。

その誤解が「正しい」と思うから、それを答えるわけです。

 

 

正しいものを答えたい場合であれば、

『間違ってる』と思って答えたりはしません。

(分からん場合は例外)

 

 

 

 

 

・意思決定のケースその 2

 

次は↑のとは少し違う、

ある「決定をする場面」を考えてみましょう。

 

 

というわけで、ある日、熱を出したとします。

といっても、学校に行ける程度の熱だとします。

そしてその日は定期テストがあるとしましょうか。

 

 

すると、ここで人は 2 択に迫られます。

「学校に行く」のか「行かない」のか。

 

 

これに理由を付け加えるなら、

「テストがあるから行く」のか。

「熱が出てるから行かない」のか。

 

 

といってもまあこの場合だと、

普通は「行かなければならない」でしょう。

 

 

子供がどう判断したところで「親」は行かせるはずです。

微熱程度なら、まあ我慢して行ってこいと。

 

 

 

しかしさて、そもそもの話として、

なぜ、人はこんな風に考えるんでしょうか?

この場合なら、どうして『行く』という選択肢を選ぶんでしょう?

 

 

まあ、理由ならいくらでも考えられます。

成績とか内申点とか後回しはどうたらとか、

考えられる限り、それらは全て意思決定の材料になります。

 

 

ですが、はて、それでもなぜその理由は根拠になるんでしょうか?

『行く』という直接の行動に、なぜそれは影響を与えるんでしょう?

ほんと、そもそもの話、どうして?

 

 

行くか行かないかなんて、別に好悪で決めても良いわけです。

行きたいか、行きたくないか。

ただそれだけで決めても特に問題はありません。

 

 

でも、人は決めます。

『行く』なら『行くと決めます』し、

『行かない』なら『行かないと決めます』。

 

 

こう考えると『決めるために』理由があると、そう思えませんか?

 

 

「本人」が『決めない』としても、親などの「他人」が決めます。

こんな感じに、ともあれ『行く』『行かない』の問題も、

こんな感じで『決まる』わけですね。

 

 

そう、こんな感じに、

結局「決める・決めない」に話はまとまるんです。

 

 

理由は正直、ただの後付けでしかありません。

要は「決める」ための判断材料でしかないわけです。

 

 

そう、理由は、事態をややこしくする以上の意味を持ちません。

問題は一貫してシンプルなままで、ただ「決めるかどうか」。

 

 

理由はそのどちらに傾くかを決める重しでしかありません。

いずれにせよ、最後は「決める」ことになるので。

 

 

 

つまり最終的にはこれも、

「決める・決めない」の 2 択問題となるわけですね。

 

 

そしてこれは「決めるかどうか」という比較ができるわけで、

つまりこの「決める・決めない」も数なんですよ。

 

 

 

 

 

・決定しないケース

 

次は「答えが出ない」ような場合を考えてみましょうか。

といっても、これも結論は↑と同様で、

要は『答えを出さない』と「決めた」わけですよ。

 

 

これについては、具体例を挙げなくてもなんとなく分かりますよね?

これも結局、最終的には「決める・決めない」の問題になります。

 

 

 

ともあれ、一応、具体例を見てみましょうか。

「決めない」ので、後回しにする感じの例を考えてみます。

 

 

その中でも「問題はあるけど良い解決策を思いつかない」場合だと、

例えば「バブル経済が崩壊しちゃった」けど、

「若い世代に丸投げすればいっか」みたいなのとか?

 

 

いわゆる問題の「先送りを選択した」パターンですね。

自分たちの起こした問題を「押し付けると決めた」のが、これ。

それでいて「考えないと決めた」というのもそうですね。

 

 

で、この場合、

『問題の解決策を得られなかった』は、本質的ではありません。

 

 

「解決策が無いから、なにも決めることができない」というのは、

明らかに順番がおかしいですよね?

 

 

というのも、順番を見ていくと、

まず「なにもしないと決めた」ことが最初に来ています。

そしてその結果、「解決策が無い」となってるわけであって。

 

 

当然の事実として、解決策が無いなんて状態は変です。

誰かが適当に考えても、幾つか思い浮かぶでしょう。

 

 

しかし誰もが「なにもしない」ことを選び、

経済を制御していた誰もが、責任追及から逃がれました。

その結果、なにも決まらなかったんです。

 

 

要はこんな感じで、

順番としてはまず「責任を負う・負わない」から来ていて、

「そのための手段を実行すると決めた」というのが来ます。

 

 

つまり「責任を負わない」という決定があったからこそ、

「なにも解決策が無いから決められない」となったわけですね。

 

 

とまあこんな感じで、「決定しない」ケースでも、

実は「決定しないことを決めるなにか」があるわけです。

 

 

今回はバブル経済での政治的判断を例に出しましたが、

他にも政治の世界ではこういうのは多いので、

これ以外の具体例はそっちを参考にどうぞ。

 

 

 

 

 

以上、ご覧の通り、結局は 2 択の問題、

「決める・決めない」「はい・いいえ」「そう・そうじゃない」

「正しい・微妙」というような、シンプルな話に分解できるんですね。

 

 

ただ、そこに至るまでにはやはりいろいろと操作があるわけで。

んで、そのやり方・手順も、実は数学の領域です。

(具体的にはシークエントとか)

 

 

 

とまあこんな感じで、

あらゆる「問題」は『はい・いいえ( 1,0 )』という、

ただそれだけのシンプルな問題に帰結させることができます。

 

 

 

「どちらでもない」も、

「決める」場合は、結局どちらかに傾くんです。

 

 

というのも、どちらでもないのだとしても、

要は『はい・いいえを決められるか否か』の 2 択になるわけですから。

 

 

 

そしてこの 2 択も、最終的には一つにまとめられます。

それは『正しいと分かる・正しいか分からない』です。

 

 

これの言い方はなんでも良いでしょう。

それこそ「分かる・分からない」でも良いですし、

「存在・無」「真・偽」でも構いません。それこそ 1,0 でも。

 

 

 

大事なのは、最終的には『正しいかどうか』になるということ。

それが確かであることは、直観的に理解できるかと。

 

 

で、この考え方があくまで『人に』と限定される理由は、

『有限の視点』という制約を持っている中で、

これが『人にとって』最も分かりやすい『考え方』だからです。

 

 

ですから『人の正しさの考え方』と、そう言ってるわけですね。

 

 

 

 

 


どうして数学は難しいと思われるのか?

 

|| 意味ではなく実現方法だけを教えられるから

結論としては『大事な部分は教えてもらえないから』です。

 

 

はい、ほんとに大事なことを習いません。

そしてその大事なものというのは、

一言で言うと『現象の意味』です。

 

 

これだけじゃ分からないかもしれないので、

これがどういうことか説明していきます。

 

 

まず、↑に書いたように、数学とは、

『人の当たり前』を『形式化』して『考察した』成果です。

 

 

この前半部分に注目してください。

この部分の意味をより具体的にすると、↓みたいになります。

 

 

なんらかの「操作」があって、それらの『意味』を解釈して、

そして『数学的に扱えるように形式化』している。

 

 

当然ながら、順番は↑みたいになってます。

そしてこれを見て分かる通り、どこが抜けても分かり難いです。

というか、抜けるとなにがなにやら訳分からん感じ。

 

 

というのも、

「操作」がなければ、なんの「意味」なんだよって話ですし、

「意味」がなければ、「形式」と「操作」に関連が無くなります。

 

 

 

そして『形式化』は最後、つまりは『結論』です。

「結論」が無ければ、そもそもなにが言いたいんだって話ですよね。

 

 

んで、この『結論』であるという点が重要なんです。

 

 

というのも、

同値という概念を誤解するとこうは思えないかもしれませんが、

この「形式」は、結論であって「前提ではありません」。

 

 

当たり前なようですが、この当たり前が実はそうでもなかったり。

というのも、これを『同じ』だとする誤解は頻繁に起きてます。

ただ、この詳細は本題から逸れるのでまた別に。

 

 

 

というわけで、ここで少し考えてみてください。

前提になる「操作」と『意味の解釈』って、そういえば習いました?

 

 

自分たちが習ったものは、

いわゆる結論だけで、「形式」しか習ってなくないですか?

意味解釈は、形式の意味解釈じゃありませんでした?

 

 

はい、というわけで、これが答えになります。

私達が学校で教えられるのは、

『形式化のやり方』だけ、なんです。

 

 

 

結論としては、これが難しく感じる要因になります。

そもそもの存在理由となる『操作』と、その『操作の意味』解釈は、

教えられないし、恐らく教える側もそもそも知らないんです。

 

 

学校で習う数学のこの感覚を、例えば「言語」で例えるなら、

『単語』の「作り方」だけを習ってるような、そんな感覚です。

その「意味」や「使われ方」は教えません。

 

 

このアルファベットで作られました、と習うだけな感じ。

(意味を知らずにスペルだけ絵みたいに覚える、みたいな)

 

 

実際にどれくらい分かり難いかやってみましょうか。

というわけで「 \mathrm{Interpretation} 」この単語を覚えてください。

 

 

この単語の意味を知ってる方なら簡単に覚えられるでしょう。

でも、知らない方は簡単に覚えられますか?

そもそも、これの意味や使い方、分かりますか?

 

 

はい、とまあ学校ではこんな風に数学を教えてるわけで、

そりゃあ当然、分かるわきゃないんです。

 

 

分かるっていう人は、頭がすごく良いか勘違い野郎かのどっちか。

寧ろ分からないという方が正常な気がします。

 

 

なにせ『前提が不確かなまま』で、

よく分からない『結論だけ』を教えられてるんですから。

分からない、難しいという感覚は、寧ろ当然と言えませんか?

(極限とか微積とか特に)

 

 

 

 

 

どうしてこうなった

 

とはいえ、そもそもなんでこんなことになってるんでしょうか。

どうして分からなくて当たり前のやり方を放置したままなんでしょ?

 

 

一つはまあ、教材作成者の怠慢があるとは思いますが、

それ以外にも、恐らく『数学における重要度』が要因になってます。

 

 

というのも、形式化には『発想』が必要になります。

つまり「重大な発見」は、大体この「形式化のやり方」なんです。

(極限のε-δ論法とか)

 

 

んで、これと↓が噛み合った結果が、

この惨状に繋がったのではないか、と推測できます。

 

 

前提がはっきりしてるなら、結論だけを言えばOK

 

 

ともあれ、これは常日頃から人が実感していることです。

特段、変な話ではありません。

 

 

でも、これを日常で意識してるかと言われると、はてな? ですよね。

会話するときだって、相手が日本語を理解できるって決め付けますし。

 

 

つまりどういうことかというと、「分かってる連中」が、

『重要なものだけをまとめた』結果が、↑の惨状に繋がるわけです。

 

 

要は「半端に理解した気になってる大人」が、

できもしない『最適化』を行って、

「前提が欠落した結論だけ」になってしまった感じ。

 

 

 

考えてみれば、数学の教材を作ってる当人にとって、

「操作」も「意味解釈」も、当たり前の前提です。

そして、それは結論では無いので、説明で省略できます。

 

 

で、結論はあくまで「形式化のやり方」で、

「なにを形式化したかったのか」は、前提です。

 

 

とまあこんな感じに、

「教える側が」分かるものを省略して教えるから、

わけわかんなくなるんです。

 

 

分からない、知らないという人に教えるはずなのに、

それを教える側が省略しちゃってるんですね。

 

 

つまり一言でまとめると、

分かってるやつらの説明放棄が、

数学を難しくしている原因なわけです。

 

 

まあ、単に知らないだけなのかもしれません。

でもまあ、知ってても知らなくても、

怠慢なことに変わりはありませんよね?

 

 

 

 

 

当然ですが、これは数学的に表現できます。

『論理的主張が真なら、結論が真の時、前提もまた真』

これが、↑の問題を簡潔に説明する数学的な表現になります。

 

 

こんな感じで、結論だけ書かれてても分かるわけないんです。

その結論が正しくなる前提が無いと、寧ろ合ってるかさえ微妙。

 

 

 

この問題となってる教え方の中で、

個人的に一番腹が立つのは、

「教科書がこうだから」とかいう説明ですね。

 

 

なんか結論を説明する『前提っぽい』ですけど、

いやいや、は?って話じゃありませんか?

 

 

少なくとも、これは数学の考え方ではありません。

単なる思考停止な上に認識違いです。

個人的には教えるという行為に属するものではありません。 

 

 

まあ、「学校じゃ教えないから」とかならまだ良いです。

実際その通りですし、それがおかしいんですから。

 

 

ただやはり「説明放棄」は見過ごせません。

このせいで、分かり難いというレッテルが貼られてるわけで、

数学を嫌いになる人が増えてしまいます。

 

 

こう見ると、はて、数学を嫌いにさせてるのは誰なんでしょうね。

 

 

 

 

 

はい、というわけで、これが数学が難しい大雑把な理由になります。

 

 

まとめると『結論だけを教えられるから』で、

別の言い方なら『前提を教えてもらっていないから』です。

 

 

そしてこれは単なる「説明放棄」が原因で起きてるだけで、

なんでそんな風になってるかというと、

単に『教える側が怠惰』だから。

 

 

 

これから分かる通り、

『数学そのもの』には、難しさを感じる理由は無いわけです。

 

 

難しさの原因は、1つは教える側にあって、

もう1つは、数学に限らず勉強が嫌いな側にあるんですね。

つまりは、人間のせいです。

 

 

 

このサイトでは、できる限り、

こういうことが無いように解説しています。

少なくとも↑のポイントは押さえています。

 

 

数学を学びたい方は、まずは「数学の始め方」を参考にしてください。

これを見ずに他を見るのは、効率的ではないので。

なにより、知らない場合、結局見ることになります。

 

 

 

 

 


数学の完全性

 

|| 正しさを決められるものだけ扱う

要は『正しいなら全部説明できる』よねって話。

 

 

これは何も、独自の解釈ではありません。

というのも、数学の『完全性』とは、

『正しいなら証明できる』という性質を指します。

 

 

「完全」というと、他には「完全律」なんてものもあって、

これは『全部、ある関係が成り立つ』みたいな感じの意味です。

 

 

 

とはいえ、そもそも、

よく考えてみれば「完全」ってなんなんでしょ?

なんとなくわかるけど、結構あやふやじゃないですか?

 

 

そんなわけで、自分は↑の解釈から、

『正しいんなら全部説明できる』って感じに軽く解釈してます。

 

 

というわけで、これをベースに話を進めていきましょう。

本題となる、数学の「完全さ」について。

 

 

 

さて、ではざっと確認をします。

まず、数学は『正しさを扱う』ということがベースです。

つまり『正しいか分からないもの』『変なもの』は基礎になりません。

 

 

この単純な事実から、数学はまず「初めの操作」として、

『真偽が決定可能なもの』と『それ以外』とを区分けします。

(モデルの構築)

 

 

つまるところ、これで『分かること』が明確になるわけです。

逆に『分からないこと』が除外されます。

 

 

 

さて、では準備ができたので、

これで『正しいものだけ』を作ってみます。

 

 

「正しそうな感じ」のものを『定理』として証明したり、

「なんか在りそう」なものの存在を示してみたり。

 

 

するとまあ、『正しいもの』から『正しいもの』を作ってるんで、

当然、その中にあるものは全部正しいし、

『一番下にあるもの(公理・定義)』で、全て説明できます。

 

 

これが数学の、完全さの大雑把な感覚ですね。

そう、全て『正しい』から、全て『説明できてしまう』んです。

 

 

 

ただ、これはあくまで『公理・定義が正しい』ことが前提です。

しかしこれらは正しいはずなのに、なんで正しいのかは分かりません。

 

 

おやおや、となると『説明できる』というのはちょっと違いますね。

より厳密には『定義・公理以外なら』という前提が必要になります。

 

 

 

この一連の流れから、あることが分かりませんか?

端的に言えば、『正しさが保証された存在』から、

新たに『存在を保証されるもの』が、見えてきませんか?

 

 

そうですね、それを一言で表すなら、

たぶん『正しいかどうか分からないもの』とか?

 

 

でも、これは『正しいとされてるもの』も含んでます。

なにせ「公理」は『明らかに正しいもの』ですから、

少なくとも『正しくないものだけではないですよね?

 

 

 

これを意訳してまとめると、

『分かることの存在』が明確になるから、

『分からないことの存在』もまた、明確になる。

 

 

とまあ、そんな感じですかね。

いやはや、不思議なものです。

 

 

 

ただ形成過程から分かる通り、

これは『分かること』が明確になって、初めてわかることです。

さしずめ『前者』があるから、『後者』があるように。

 

 

んで、これを不完全性と言うわけです。

というわけで、今度はそんな「不完全性」について見てみましょう。

 

 

 

 

 


数学の不完全性

 

|| 最初の前提に直観以外の根拠が無い

『正しいことを全て説明できない』という感じ。

 

 

最初に誤解の無いように言っておきますが、

これは「完全さ」を『否定』するものではありません

 

 

結論としては、数学の限界ではなく、

『人間の不完全さ』を示す明確な結果です。

 

 

どういうことかというと、

そもそも人間は『有限』に縛られています。

 

 

「説明できる」という概念も『有限』の単語でしか許されません。

これが、人の持つ明確な限界の一つになります。

 

 

つまり「人間にできる説明のやり方」では、

それが『正しいかどうか』の「説明ができない」というだけで、

本当に数学が説明できないかは、分かりません。

 

 

なにせ『正しいかどうかが分からない』ということは、

『間違ってるかどうかも説明できない』わけで。

 

 

そしてこれは『理の届く範囲』の存在から必然的に導かれます。

いわゆる「公理」の発見がこれで、公理は人の直観が前提にあります。

つまり「人の直観次第」で、説明できる範囲は変わるわけです。

 

 

 

まとめると「不完全さ」は、

『完全さによって存在が保証されている』ということ。

 

 

「不完全さ」は、単体で存在しているわけではない、ということ。

これは『完全さ』という基礎の外に存在しているものです。

 

 

つまるところ、単に『外側にあるもの』でしかありません。

「完全さ」の対義ではなく、その『外側の広がり』なわけです。

そう、内があるから、外があるんですね。

 

 

で、これは『有限という制限』を持つ「人が」説明できず、

『人が説明できない』から「正しいかどうか分からない」わけです。

 

 

 

不完全性の概略はこんな感じですね。

用語としては「 ω_0 複雑性」なんて言い方が。

(構成可能宇宙とかも)

 

 

 

まあともかく、具体的な話をしてみましょうか。

抽象的な説明ではふわっとしか実感できないでしょうから。

 

 

というわけで、

『現実の問題を扱う』時とかで考えてみましょう。

 

 

 

 

 

人は事象を『結果』としてしか観測できない

 

まずはこの事実について見ていきます。

ちょっと堅い言い回しなんで、マイルドにしてみると、

「全ての原因はわかんない」とか?

 

 

ともかく、人は「結果」しか認識できません。

その結果の『内訳』を完全に観測することは、物理的に不可能です。

なぜなら、人間は膨大な情報を意識的に扱えないので。

 

 

例えばですけど、歩くとき、筋肉の動きを完璧に把握できてますか?

筋肉を構成する分子の動きは? 原子の動きは? 素粒子の動きは?

神経を伝達する電子の動きは? 脳内で起きている具体的な処理は?

 

 

これらは、無意識では処理できているんでしょう。

でも、意識的に処理することは、まず無理じゃないですか?

 

 

できる人がいるのかもしれませんが、まず無理なはずです。

いても世界中に一人とか、そんなレベルかと。

 

 

 

つまり結論として、人は「結果」しか認識してません。

その結果を構成する「具体的な原因の全て」は、

認識できてないわけです。

 

 

認識できるのは「要因」を推測すること(あくまで推測)と、

その他の原因が存在する(これも推測)という程度になります。

 

 

これらの「正しさ」を示すにも、結局は『結果』が必要で、

つまりは『結果論でしか』正しさを示せません。

 

 

それでいて『結果が無限に考えられる』なら、

その正しさは『完全』に保証されるわけではありません。

(確率・統計の分野)

 

 

つまるところ、人は結果しか認識できないわけですね。

原因はあくまで「精度の高い推定」でしかありません。

 

 

 

まとめると、要は『人間の限界』を考えると、

『全ての原因を明らかにする』というのは、非現実的なわけです。

具体化するにしても、例えば時間的な限度が必ずあります。

(資源の限界・初期値鋭敏性など)

 

 

要は『原因となるもの全て』には辿り着かないわけで、

人は「原因の一部」を『確率的に』推定することしかできません。

この事実が、人間の「不完全性」を示す一つの根拠になります。

 

 

 

また、これは『結果』の集まりとしての、

『抽象概念』のパターンでも同様です。

 

 

人間は『人間に許された有限の範囲』でしか結果を観測できない以上、

得られた結果から『最も抽象化』された情報(ふわふわの極致)

つまりは「真理」を真理だと認識することはできません。

 

 

なぜなら、得られる結果は「有限」だからです。

つまり必ずと言って良いほどズレが存在します。

いや、そもそもズレの有無さえはっきりしません。

 

 

なぜなら、正解を得るには「全て」を集める必要があるので。

そして「全て」分かるには、それこそ無限に時間が必要です。

 

 

 

ただ、正しいものを認識できないわけではありません。

人は「正しいかどうかを『完全には』確認できない」だけで、

『ほぼ確実に正しい』ことは分かるんです。

 

 

なにせ数学的には「理論上は可能」だと分かりますし、

更には『そのやり方も分かります』。

 

 

しかし『無限』という壁が、

その実現が不可能だということを示してしまうわけです。

(具体的には到達不能基数など)

 

 

というのも『物理的限界を有する人間』には、

それを実行に移せても、演算結果を確認する手段がありません。

 

 

なぜなら確認には無限に時間が必要なので、

その作業を終える前に、先に寿命が来てしまいます。

 

 

 

これは原因を推定する場合でも同様で、

「人は原因を原因だと『確実に』証明することはできない」ので、

分かるのは、やはり結果だけなんです。

 

 

分かりやすい例としては、

例えば自分が体を動かす時、

自分が具体的に何をしているのか、分かりますか?

 

 

分かりませんよね。

自分が体を動かした結果は、認識できますが、

どうやって、の部分は曖昧です。

(コンピュータ内の具体的処理など)

 

 

できるのは、精々が予測するか、仮定するか。

それくらいでしょう。

 

 

 

とまあ、こんな感じ。

というわけで次の具体例へ。

 

 

 

 

 

人は「概念」の完全な共有ができない

 

これはまあ、↑と似たような話です。

要するに「人は完全な意思伝達ができない」って話。

 

 

結論としては「概念の中身が違う」っていう話になります。

でもまあ、これじゃちょっと分かり難いですね。

 

 

 

例えばですけど「遠い」とかで考えてみましょうか。

皆さんはこれを聞いて、どれくらいの距離を思い浮かべますか?

 

 

恐らく、誰もが同じにはならないはずです。

徒歩30分の距離を遠いという人もいれば、

徒歩1時間くらいなら遠くはないって人もいるでしょう。

 

 

他にも、具体的な場合だと、例えば「米」ならどうでしょうか。

みんな同じになりそうですけど、さて、どうでしょう?

 

 

まあこれも、日本の米とそれ以外を考えると分かりますよね。

日本だと主食ですが、主食ではない国はたくさんあります。

その片方しか知らなければ、思い浮かべるものは別々。

 

 

産地に限らず、米と聞いて思い浮かべる料理も異なるでしょう。

普通に茶碗に盛られたものを想像する人もいれば、

炊飯器に入ったものを想像する人もいるはずです。

 

 

はい、これだけ具体的でも完全ではなく、違いがあります。

こんな感じに、概念の伝達には、

どこかしら、なにかしらの違いが必ず存在するんですね。

 

 

とまあ、要はこういう話です。

同じ概念を共有しているはずが、その中身が異なっていると。

特に「抽象的な概念」とかだと、その感じが顕著に。

 

 

 

はい、このように、意思伝達は不完全なものなんです。

同じ単語を使っても、その意味は個人によって異なります。

 

 

そもそもの話、文字、音声、身振りで伝えられる情報は、

ただの記号でしかありません。

 

 

大雑把な『枠』の共有はできても、

その『枠の中身』までは、どこか共有できないわけです。

繰り返しますが、人はあくまで、記号の伝達しかできていません。

 

 

 

そして数学は、その「記号」をメインに扱います。

特に『誰もが同じだと感じる概念』を記号化して。

 

 

これでなんとなくわかると思いますが、

いわゆる公理や定義は「超絶的に具体的な概念」なわけです。

誰が解釈しても、差がほぼ無い程の。

 

 

これから言えることとして、

数学は『概念を記号に置き換えている』。

こう捉えることもできるんですね。

 

 

 

話は戻って、

人は、基本的には『概念』を記号でしか伝達できません。

そして記号に置き換えた時点で、概念は『抽象情報のみ』となります。

 

 

つまり意思伝達では、『枠』だけ渡してるんですね。

中身は勝手に用意してねって感じで。

 

 

この事実から分かる通り、

その概念を形成した『具体的な情報』は、全て欠落しています。

ですが、人は完全でなくとも、似たようには解釈してくれるわけです。

 

 

しかしはて、なぜ、その概念をある程度共有できるんでしょう?

その概念の中身である具体的な情報は、欠落しているはずなのに。

 

 

 

まあ、ちょっと考えれば分かりますよね。

その『具体的な情報』は、受け取り手によって補完されてるんです。

 

 

つまり「記号を受け取った側」が、

好き勝手に「中身を入れてる」わけです。

 

 

思い返してみてください。

人は皆「自分の理解できる形にして」理解するものです。

 

 

例えば言語化も、基本的に自国語をベースにしますよね?

これは、それについての詳しい話をしている感じです。

 

 

 

というわけでまとめると、

『概念を指す中身の無い記号』しか、人は伝達できてません。

人が意思伝達を行う場合、「欠落・不完全さ」は前提となるわけです。

 

 

 

こういった事情から、人は「不完全」と言えます。

つまるところ『人が扱う』以上、数学は不完全になるわけですね。

 

 

ただしこれだけは押さえておきましょう。

 

 

『完全さ』を否定することもまた、

人の「不完全さ」によって、人には不可能なんです。

 

 

これを見て分かる通り、

「完全さ」は『不完全さ』を、

『不完全さ』は「完全さ」を、それぞれ否定していません。

 

 

そして『完全さ』に至っては、

『人間の直観』から決められた『正しさ』を基準にすると、

どう見ても正しいものとして扱えるわけです。

 

 

 

これを外側から眺めてみると、なんだか不思議な感覚ですよね。

人間はなぜ、理由が無くとも正しいと判断できてしまうんでしょう?

 

 

 

 

 


完全で不完全な数学

 

|| 完全な数学と不完全な人間

数学は「人間のための思考の道具」です。

「人間のために」正しさを決めていきます。

 

 

つまり数学の『完全さ』は、

正しさを決めていける後出し原理にあって

 

『不完全さ』は、

人間の持つ有限性という限界にあるわけです。

 

 

↑の話で「数学の完全性と不完全性」については、

まあ、ある程度納得していただけたかと思います。

 

 

繰り返しますが、

数学は『人間のための道具』です。

 

 

ただしそれを扱う人間は「不完全」で、

それでいて、その道具は完全に限りなく近いわけです。

ただ『人間が扱う』以上、必ず不完全さを持つことになります。

 

 

 

ともあれ、数学は非常に優秀な道具であることは間違いありません。

しかし『人間が扱う』以上、完璧には扱いきれません。

 

 

何が言いたいかというと、

つまりは『道具に不足はない』けれど、

『道具を使う側に不足がある』と、そういう話です。

 

 

これが、数学が完全であり不完全である理由の核になるかと。

 

 

 

主張の繰り返しになりますが、

数学に限らず、いかに優れた『道具』であっても、

その『使い手』が未熟なら、どうしようもないのは道理です。

 

 

具体例を挙げるとするなら、例えばPCであれば、

仕組みを理解して色々なことができる人が扱うPCと、

何もわからない人が扱うPCは、目に見える便利さが違いますよね?

 

 

で、これは数学も同じなわけです。

上手に扱えている人もいれば、全く扱えない人もいます。

 

 

そしてだからこそ錯覚も生まれるわけです。

『上手に扱えない』から「数学は使えない」という具合に。

 

 

 

当然ながら、数学にもきちんと扱い方があります。

それを分かってさえいれば、数学を便利に扱えるんですね。

というわけで、その例を見ていきましょうか。

 

 

 

 

 


数学と意思伝達

 

結論から行くと、人が意思伝達を行う場合、

まず「欠落・不完全さ」は前提になります。

 

 

しかし人間は欲張りさんですから、できるだけ完全にしたい。

誤解なく、全員が不足なく理解できるように。

そんな風に思うのは、まあ普通の話でしょう。

 

 

で、これを実現するために、

実は数学が使えるんです。

 

 

数学でやることをざっと言うと「枠」を決めます。

数学は基本的にこれからスタートです。

 

 

 

ともかく、これじゃ抽象的過ぎると思うので、

とりあえず具体的な話をしていきましょうか。

 

 

まず確認をしておきますと、

数学は『誰もが正しいと思えるものを扱う』わけでして、

これによって、情報の欠落を極限まで減らすことができます。

 

 

これでもまだまだ抽象的なので、

もっと掘り下げてみましょう。

 

 

↑ができる理由についてですが、

これは「なにでできているか」という『具体情報』が、

『~ということにする』という、議論領域で定まるからです。

 

 

よく分からないかもしれないので別の言い方をすると、

『議論の前提』として「~を正しいとする」と「仮定」すれば、

それ以降の話は、全て数学的に扱えるという感じ。

(その仮定に特に矛盾が無ければ正しいとできる)

 

 

んで、議論の発展も、推論で可能です。

仮定形成やら検証やらも、全て数学で処理できます。

仮説形成なら「集合論」で。検証なら「統計」などで。

 

 

 

もっと具体的な話に落とし込んでいくなら、

これは要は『議論の着地点・妥協点など』を仮定してるんです。

 

 

例えば、限られた時間で区切るとか。

当然ですが、 1 時間しかないのに 100 時間かかることはできません。

 

 

ということは、 1 時間以上掛かる手段は、

議論してもしょうがないので、排除して考えた方が建設的です。

 

 

他にも資金的、人的リソースの限界を定めるとか。

こんな感じで『使えるものは限られている』と、決めてしまいます。

 

 

とまあ、こんな感じで前提を定めてしまえば、

それ以降は、全て数学的に処理できるようになるというわけです。

 

 

 

なぜなら前提を定めちゃうので、

その前提に反するものを、議論で弾くことができます。

無いものは無いので、それが在る前提の話を排除できるわけです。

 

 

そしてこれは、

『リソースは有限である』っていう「正しさ」が、

前提として明確に共有できているからこそ可能なことです。

 

 

こんな感じに、数学は『正しいものを決めていけて』います。

 

 

色々な例が考えられますが、このように、

数学を元にした伝達は『限りなく完全』になるんです。

それもこれも、全ては数学的な処理を行ったから。

 

 

 

ただ、これだけじゃ納得できないかもしれないので、

これを行わなかった場合を少し考えてみましょうか。

 

 

例えば「終わりのない理想の追求」を行う場合や、

「リソースを無視した追及や要求」を行う場合など。

 

 

いわゆる「妄言」の類。

 

 

ただこれはまあ、そこまで考えなくても、字面からして、

まず価値のあるものはほとんど得られないと分かります。

 

 

議論は終わらず、結論も出ず、時間だけ浪費する感じ。

着地点が無いので、無駄に資源を消費してしまいます。

 

 

 

とまあこれでなんとなくわかったと思いますが、

数学はこういった不毛な事態を回避する時にも使えるわけです。

何を基準に話してんの? みたいな感じで。

 

 

 

 

 

概念の伝達と記号

 

次はこれらの細かな内訳を見ていきます。

「意思伝達」の具体的な話に移るために。

というわけで、まずは結論から。

 

 

数学は『概念を表す記号』の伝達しか行えない。

しかし、それだけはほぼ確実に行える。

 

 

これが「意思伝達」における数学の役割になります。

 

 

極端な話「正しさ」は記号に過ぎません。

それを正しいとするという仮定もまた、所詮は記号の列です。

 

 

なぜなら「文字」も「音声」も「映像」も、

全ては『バイナリデータ( 0,1 )』に変換できます。

んで、その意味は受け取り手が勝手に解釈しますよね?

 

 

そう、全ては「意味を解釈させる材料」に過ぎません。

それらのデータそのものには、意味は無いわけです。

 

 

しかし実感として分かるように、

意味なんて無くても、そもそもそれだけで十分なんです。

 

 

『意味を解釈させる材料』として、ただ存在しているだけ。

ただこれだけのことで、ある程度の情報は共有できてしまうので。

 

 

 

例えば「太陽」といえば、それがどんなものかある程度共有できます。

でも、「太陽」はあくまで『文字(記号)』でしかありませんよね?

 

 

それに、「太陽」で思い浮かぶものも人によって違うでしょう。

明るさを思い浮かべる人もいれば、暑さを思い浮かべる人もいるはず。

人によっては色や形、寿命なんかを思い浮かべたり。

 

 

 

とまあこういう感じです。

てなわけで、一度↑の事実を確認しておきましょう。

 

 

『概念』は「データ」に変換された時点で情報が欠落します。

そして、そもそも人間自身が、全ての情報を認識していません。

 

 

人間は限られた情報しか認識できず、

そして数学もまた『データ』の正しさだけしか保証できません。

 

 

しかし人間は『データ』を「自分に理解できる形にして解釈」し、

伝達された概念を「自分が理解できるもの」へと置き換えます。

 

 

これから分かる通り、

勘違いが起きるのは、あくまで『解釈』の段階です。

概念は、伝達された段階で『中身が別のもの』に変化しますから。

 

 

つまり人は、

伝達される「枠」としての『データ』は、間違わずに伝達できます。

しかし、その枠・記号の「解釈」は、正しい保証が無いわけです。

 

 

 

これから分かる通り「人は間違える」ものです。

で、これは「解釈の誤り」によって起きます。

これが、意思伝達の『不完全性』を示してる一つの事実です。

 

 

ともかく、分かっていることとして、

『データの扱い』に関して「数学には」間違いがありません。

この数学の部分は『完全性』を保持してるんです。

 

 

 

つまり↑の感じから分かる通り、

「正しさ」とは、そもそも『解釈の材料』に過ぎません。

完全に伝達可能な部分は、記号だけですから。

 

 

整理すると、『数学が扱う範囲まで』は、確実に正しいです。

なぜなら『記号(枠)』の伝達は、確実に行えてるわけですから。

 

 

しかし「記号を受け取った側」が『解釈をする』段階で、

中身は「記号を受け取った側」のものになるわけです。

ここで、伝達された情報が違うものになります。

 

 

 

とまあこのように、ここまでは、

いわゆる「伝達される情報の全体」の話。

というわけで、次はより具体的な話をしていきます。

 

 

なんの話かというと、

『勘違いが起きにくい情報』の話について見ていきます。

 

 

違う違うと↑で言ってきましたが、

いやでも、コミュニケーションは実際、特に問題なくとれますよね?

これがなんで違うのにOKなのか、って話を↓でしていきます。

 

 

 

 

 

枠の中身がほとんど同じになる記号

 

いわゆる『誤解の余地が少ない記号』について。

違っても、意思伝達で特に問題が起きない理由は、

要はこの存在があるからこそです。 

 

 

いわゆる数学でいうところの、

『公理』『定義』『定理』が代表的な例ですね。

 

 

当然、これらを見ても分からないって人はいるでしょうけど、

これらは分かってしまえば、誰もがほぼ同じように解釈します。

 

 

例えば「 1 日」なんかは、ほとんど同じになるはずです。

人によって多少の差異はあっても、まずほとんど同じになるでしょう。

 

 

で、これは「 1 日の定義」が曖昧ではないからこそです。

 

 

もっと身近な例を挙げるとするのなら、

例えば『すぐに確認できてしまう事実』なんかもそうです。

事実の解釈に差異はありますが、ほとんど同じになるでしょう。

(科学の基礎原理はこれ)

 

 

これから分かる通り、

「すごく具体的なもの」や「共通する部分」なんかは、

その記号の中身が、似たもの、同じものになりやすいんです。

 

 

この結果、受け取り手は「ほとんど同じもの」と解釈できて、

「誰もがそうだと納得するしかない」という感じになります。

 

 

これが違っていても意思伝達に特に問題が生じない理由なんです。

 

 

つまるところ、正しいかどうかは問題ではありません。

要は「おかしくはない」ということが大事なのであって、

「正しさ」は、そういうものとして認識されます。

 

 

そもそもの話として、

概念そのものに正しい正しくないという指標はありません。

 

 

概念はあくまで記号に変換される主観的な情報であって、

それが「納得するしかない」場合に限り、

「正しいとせざるを得ない」ってことになるだけなんです。

 

 

つまり当然の話として、

正しいと思っているものでも、間違っている場合はあり得ます。

それこそ「正しいかどうかすら分からない」場合も。

 

 

 

数学では、その「よく分からない概念」の中でも、

特に、『正しいかどうかが分かるもの』を選んで扱います。

 

 

つまり数学を介しない解答は、

『分かる』でも『分からない』でも、どちらも不確かなんです。

なぜなら、そもそも正しいかどうかを決めてもいないので。

 

 

そして、この事実からは単純な事実が導かれます。

それは、いわゆる『正しいと分かる』という意味での「理」は、

正しさが保証されているという意味で、数学が扱えるということ。

 

 

 

そう、つまりは『理の届く領域』は数学の範疇で、

だからこそ、数学は『理の届かない領域』の存在を保証するんです。

 

 

とまあこのように、「意思伝達」の事例からも、

この「完全性」と「不完全性」の関係は見えるんですね。

 

 

 

そして如何様にでも、人は「不完全さ」を「完全」にしてしまえます。

要は「分からないこと」も、「こうだ」としてしまえば、

それ以降はそれを根拠にすることで分かるようになるわけで。

 

 

とまあ、こうすることで「完全さ」の範囲は広がっていきます。

で、そしたらまた「不完全さ」が生まれて、

これは無意味と思われるまで延々と続くわけです。

 

 

とまあこのように、「分かるもの」が確定すれば、

同時に「分からないもの」の存在も確定する、というわけ。

 

 

『正しさを決めていく』という「進行形」の由来は、これになります。

 

 

つまりまとめると、

「数学の完全さ」とは、

『正しさを決めていける柔軟さ』のことで、

 

 

「数学の不完全さ」とは、

『人が扱うことによる限界』のこと、なんですね。

 

 

再度の繰り返しになりましたが、

だから数学は「完全」で「不完全」なわけです。

 

 

 

 

 


数学と科学

 

|| 机上の正しさと実証による正しさ

どちらも、「人の考え方」の一分野です。

特に、科学は『実際に存在する』というのを重視してます。

 

 

比較すると、

数学が『正しさ』を司る思考体系だとするなら、

科学は『実際』を司る思考体系になります。

 

 

というのも、いくら『正しい』といっても、

「本当に正しいかどうか」は、

やはり『実際に試してみる』までは分からないわけで。

 

 

というのもの、

人は目に見えるものや理解しやすいものでなければ、

そもそも「存在を実感できない」上に「正しいと思えない」です。

 

 

 

またこれと同様に、

『実際とは何か』を決めるにしても、

「こうするのが正しい」としないことには始まりません。

 

 

『なにを正しいとするか』をはっきりさせておかなければ、

「実際」というのが何を指すのかあやふやになってしまうので。

 

 

というのも、いかに『実際に得られた値』があろうと、

『実際にそうだったから』という理由だけでは人は納得しません。

 

 

考えてみれば、必ずそこには『根拠』が必要になるわけです。

それこそ「権威」などの「信用」であったり、

他にも「理論的な正当性」であったり。

 

 

 

そうですね、例えば「偽証」というものが考えられます。

『実際に存在している』という主張は、偽ることが可能なんです。

これは説明が不要なほどに明らかな事実でしょう。

 

 

で、ある主張があったとして、

それが偽りか真実か、それを確かめる術というのは、

確実なものは、『実際に確かめてみる』以外には無いわけで。

 

 

というのも「実際に存在していそうなもの」が仮にあったとして、

それが『実際には存在を確認していない』のなら、

その時点ではまだ確実に存在を確信できません。

 

 

というのもの、それを正しいと思えるかどうかは、

今度は情報源に左右されてしまうことになるので。

 

 

例えば『実際に得られた』と、

ある嘘つきが言ったとするなら、

果たして多くの人は正しいと思えるでしょうか?

 

 

嘘の他にも、不適格な場合だって考えられます。

例えばいっつも勘違いする人が『実際にこうだった』と言って、

それは信用するに値すると思えるでしょうか。

 

 

 

とまあ、「信用」についてはこんな感じですが、

他にも「明らかにおかしなもの」も考えられます。

 

 

というのも、『実際』には明らかにあり得ない話が、

さも本当であるかのように語られることがあります。

これも、偽証の一種です。

 

 

例えば昨日何食べた?って聞かれて、

焼き肉100人前40000kcalを一人で完食した、とか言われたら、

まず間違いなく嘘でしょう。ほんとなわけないです。

 

 

同じように、最大限見積もって20万人くらいの説に対して、

30万人以上どうたら、と主張するのは明らかに変でしょう。

 

 

他にも、俺昨日死んだんだ、とか言われたら、

いや生きてんじゃんってなりますよね?

 

 

 

こんな感じに、『実際』にもちゃんと基準があるんです。

「これが実際だ」っていう、ちゃんとした決まりが。

 

 

はい、つまりこの「基準」を、数学は提供してるんです。

科学が「実証」を、公理・定義・定理として数学に提供するように。

 

 

 

一例として考えられるものとしては、

実証の『過程』、いわく「実験の方法」を明確にしたりとか。

 

 

例えば、こういう状況で、こういう観測結果が得られました。

その証拠に、同じようにすれば似たような結果が得られますよ、

というような感じにするとか。

 

 

そのやり方に正当性があるかどうか、

その実験の正しさを判断してもらえるようにすると、

これは『正しい実際』に近づきますよね?

 

 

他にも、得られた観測値の、そもそもの「目的」を明示することとか。

それを得た「状況設定」を事細かに記すことも重要でしょう。

 

 

そういったものによって、

実証の正しさが『確率的に』測られれば、

それこそ「どれくらい正しいか」もまた明確になります。

 

 

 

とまあこんな感じにすると、

「信用のできる主張」というものが得られるんですね。

まあ、言っちゃえば当然の話ですが。

 

 

しかしこの当然という感覚は、

果たしてどこから来たものなのか。

 

 

それを考えたとき、

「数学」だと思える人は、そんなに多くはないですよね。

 

 

 

 

 

数学と科学の問題点

 

この二つの考え方には、まあ当然『不足』が存在します。

数学の不足は先述の通り、「人間の限界」が。

 

 

それと似たようなものとして、

科学にもまた、当然のように『不足』が存在します。

 

 

 

 

 

数学の問題点

 

まずより具体的に見るために、

数学の、『実際』という観点からの問題点を見てみましょう。

 

 

結論から行くと、「現実のもの」の『定義付け』と、

それへの「数値の対応付けのやり方」で問題が生じます。

 

 

そしてこの「数値への対応付け」が、

『実際』での、主な問題となる部分になります。

 

 

 

どういうことかというと、要は「誤差」の話。

より具体的には、『観測装置の問題』です。

 

 

代表的な観測装置である「人間」で考えると単純な話で、

あらゆるデータを『誤差なく観測する』のは、

事実上不可能ですよね?

 

 

要はこういう話で、

そもそも細か過ぎる誤差は原理的に「確認できません」し、

例え「ミス」をしていたとしても、それも確認できません。

 

 

つまり「前提」として、

『誤差が存在する可能性は非常に高い』んです。

 

 

しかしそれでいて、

『誤差の存在を確認すること』はできません。

なにせ『誤差を厳密に定義できない』ので。

 

 

あれ、じゃあ「誤差が存在する」ってことも確定じゃなくね?

こう思った方、正解です。

 

 

ただこれは同様に、

「誤差が存在しないこと」の確認もできません。

 

 

必然、「誤差が存在すること」も確認できないだけ。

だから「誤差が無い」とはなりません。

 

 

こういうわけですから、様相理論から拝借して、

「可能性がある」という表現を使ってるわけです。

いや実際、これが一番正確な表現でしょうから。

 

 

 

まとめると、『有限』という限界を持つ人間にとって、

できる範囲は「正しそうな推定」までだということ。

そして『確実に正しいかを確認する』ことはできないということ。

 

 

これは人間以外の観測装置でも同様で、

例えば電子レベルで観測可能でも、

「全ての振る舞い」を「精確に」観測することはできません。

(少なくとも現状は)

 

 

それに、「精確に観測できたか」を「確認する方法」もありません。

ですから得られたデータに『数値の対応付け』を行う場合、

「誤差が存在する可能性は高い」わけです。

 

 

まとめると、主な問題点は↓

「精確に観測データを数値化できない」ことと、

「誤差が存在する可能性がある」ということ。

 

 

これは「完全な観測装置を用意できない」という点で科学の、

そして「完全に対応付けできない」という点で数学の、

それぞれの問題点というわけです。

 

 

 

 

 

科学の問題点

 

科学にもまた、『実際』という観点から見た問題点が。

まあ、普通に考えて無いわけないですよね。

数学的にも↑のように『誤差の問題』があるわけですし。

 

 

で、じゃあ他にどんなもんがあるのかというと、

実は「ほとんどを数学的にしか見ていない」とか、

「科学的根拠は、限られた有限の回数しか得られない」とか。

 

 

要するに『実際の科学』と『机上の科学』の問題があります。

 

 

なんじゃそりゃ、と思うかもしれませんので、

早速どういうことなのか見ていきましょうか。

 

 

 

まず『科学的根拠( \mathrm{Evidence} )』について見ていきます。

これが、実は「机上のもの」だということを示してみますね。

 

 

これは意外に簡単です。

というのも、一個の質問をするだけですから。

 

 

んで、その質問っていうのが、

『科学的根拠が正しいのはなんで?』という問い。

 

 

「数学を机上のものとするなら」という条件が付きますが、

この質問に対する回答は、『数学的』になってしまいます。

つまり『根拠』は、あくまで机上のものになるんです。

 

 

なぜなら、そもそもこの質問に対してどう答えます?

いわゆる「実際を基準にした解答」は、得られなくないですか?

 

 

 

例えば、「いや、だって実際にそうじゃん?」とかでしょうか?

しかし冷静に考えてみれば、その根拠になるデータを、

『自分は見ていない』ですよね?

 

 

「いや、でもそんなこと言うなら何も信用できないじゃん?」

となると思いますが、いや、『実際』そうじゃないですか?

 

 

単なる事実として、「自分は実際に見ていない」わけで、

つまり『科学的根拠』のほとんどを、

「自分は」「実際に」観測していないわけです。

 

 

 

ここまでは、いわゆる『数学的な事実』です。

なにせ、すぐに確認できてしまうことなので。

 

 

いや、でもまあ、『ほとんどの科学的根拠は信頼できます』よね?

あえて↑では省きましたが、これもまた『事実』です。

 

 

そう、ただの事実として、

『ほとんど(ほぼ 100\% )の科学的根拠は正しい』わけで、

「机上のもの」か「実際のもの」かは、この事実に影響を与えません。

 

 

しかしやはり、これもまた「机上」だとは思いませんか?

なにせ、確かに「間違ったものは存在する」わけですし。

 

 

 

まとめると、

「ほとんど正しい」こともまた事実ですが、

「間違ったものが存在する」こともまた事実なわけで。

 

 

であるなら、そもそも『科学的根拠』には、

「正しいとする基準」があるはずだと、そうは思いませんか?

 

 

いや実際、この『基準』が無いのなら、

「正しいかどうか」を判断することはできないわけですから。

 

 

 

 

 

信用と科学的根拠

 

結論から言って、基準の本質は『信用』です。

理屈は、これの精度を高めるためのものでしかありません。

 

 

「科学的根拠」が「机上のもの」とする最たる理由はこれです。

というのも結局、根底に来るのは『正しいとしておく』なので。

 

 

ここに「数学を机上のものとするなら」という条件を加えれば、

『自分が実際に観測したもの』以外は、

全て「机上のもの」として良いでしょう。

 

 

 

いや実際、『科学的根拠』のメインとなるパーツは↓です。

「権威性」「客観性の高い実験方法」「数理」、

この上での、「観測データ」とその処理。

 

 

ここで一番重要になるのは、結局は「権威性」なわけで、

実際、「権威性が損なわれてる」なら、(例えば嘘つきとか)

そもそも「実験を実現できたか」疑われてしまいます。

 

 

どんなに「質の高い実験を行っていた」としても、

やはり「権威」は大事になるわけですね。

 

 

 

具体的には、実験に参加した証人を記載するだとか、

実験を行う上での資金の調達方法の明示とか、

スポンサーがいるのならそれについての言及とか。

 

 

んで、仮にこの権威という前提をクリアしたとしても、

次は「実験の方法」もまたクリアする必要があります。

 

 

具体的には、『主観・偏り』を「排除した方法」が求められますね。

特に「サンプリング」の段階で、これはめちゃくちゃ大事です。

 

 

続いて実験の目的・手順もまた、

不備が無いようきっちり整備しておかなくてはなりません。

 

 

具体的には、システマティックレビューとか、

そのためのランダム化比較試験とかがそうですね。

 

 

 

大雑把にまとめると、

「実験が実現可能か」を疑って、(実行力や嘘を吐くリスクとか)

「客観性の高い実験を行っているか」を疑って、(バイアスの排除)

 

 

最後に、「信頼しても良さそうだ」となるまでが、

『科学的根拠の正しさを保証するもの』なわけです。

こう考えると、あまり『実際』という感じはしませんよね。

 

 

 

というわけで、『不足』についてはこんな感じ。

意外に「科学的根拠」のほとんどは数学的なんですね。

 

 

なにせ『人が体験できる少ない実際』よりも、

「信用するしかない」の方が重要になるんですから。

 

 

 

 

 


数学と哲学

 

|| 根拠のある正しさと根拠のない正しさ

「こうだ」と「こうか?」って感じ。

つまり哲学は、『もっと厳密に』を追求してる考え方です。

 

 

数学が『正しさを決めていく』思考体系とするのなら、

哲学は『正しさを疑い続ける』思考体系と言えます。

 

 

 

どの学問でもそうですが、

「ほんとうにそうか?」という問い、疑問が、

「こうだ」っていう主張の精度を向上させていきます。

 

 

「疑う余地が消える」まで繰り返せば、

最後に残るのは「納得せざるを得ないもの」なわけで。

で、ここまで来ると、正しいとしないと逆に変になるんですね。

 

 

この流れは正しさを考えるときには必須です。

だからこそ、この『疑問』は必須になります。

 

 

なにより「本当に正しいのかを疑う」ことをしないと、

そもそも「正しいのかどうか」がはっきりしませんし。

 

 

 

ただしこれも、そもそも『正しさを問う』なら、

問うべき『正しさがなければならない』のは明らかなわけで。

 

 

なにせ、なにが正しいと分かっていないのなら、

そもそも、問うことすらままならないのは当たり前です。

ボール無しで球技はやれませんし。

 

 

なにより、『なんで疑問に思ったのか』が分からなくなります。

 

 

つまるところ、哲学もまた科学同様、

その根底には『正しさ』が存在しているわけです。

 

 

 

再度確認しておきますが、

そもそも「問う対象が存在」しなければ、

「問うことができない」のは明らかです。

 

 

つまり、ある「主張の存在」は前提としてあるわけで、

つまり「存在していること」は、

基本的に『正しい』とされます。

 

 

で、これが数学的な『公理』の本質です。

 

 

具体的には「自分って自分だよね?」みたいな。

こういう『主張の存在』は、確実に正しいとされます。

なにせ正しくないと色々と変になるので。

 

 

で、この自明な仮定によって、

人は初めて哲学を意識するわけです。

そしてその『整備』のために、数学が必要になるんですね。

 

 

 

どういうことかというと、

「際限の無い問い」というものを、哲学は許容します。

 

 

つまりは「全てを疑ってしまう」ことになるのも、

『疑問に思う』考え方である哲学的には、オッケーなんです。

 

 

とはいっても、このままでは『正しさ』がとっ散らかります。

なぜなら「正しいとした前提」まで疑うのなら、

そもそもの「疑問に思う結論」を問う意味がなくなるので。

 

 

確認しておくと、

前提が正しいかどうかわからないのなら、

そもそも結論が正しいかもあやふやになりますよね?

 

 

要はこういう話ですが、

この考え方はあくまで「数学的」です。

 

 

「哲学的」には、↑みたいなアプローチもいけます。

そうなると、「なんで疑問に思ったか」も無視してしまいますが。

 

 

 

なにより、

『疑ってもしょうがないこと』というのは、

やはりどう考えても存在しているわけでして。

 

 

最たるものとしては、「疑問に思う動機が無いもの」とか。

こういうのは、考えてもしょうがないわけです。

 

 

例えば、カレー食いながら、カレーってなんだっけって、

そんなこと考えてもあんまり意味ないでしょう。

原材料とか調理法とか考えるのは身になりますが。

 

 

でもまあ、大半の「疑問」には、

ちゃんと「疑問に思うきっかけ」というやつがあるわけです。

 

 

 

そして、この辺りを順番通りにやっていくのが、

「順番を見る」という点で「数学的」になります。

この点で、「正しさ」の基準に数学が食い込むわけです。

 

 

はい、とまあそんなわけですから、

不毛な疑問、考えてもどうにもならないもの、

そういったものを排除するのが、数学の哲学での役割になります。

 

 

 

 


なぜ数学は正しさを決定していけるのか

 

|| これは誰がどう見ても正しい、という決め付け

『人間にとっての正しさ』とは、

『正しいと思える上に、その時点で明確に否定できない』ことです。

 

 

どういうことかというと、

「正しいと感じる」ものを「誰も間違いだと指摘できない」なら、

「それは正しいとするほかない」だろうって話。

 

 

なんかえーって感じしますけど、

いやいや、数学の根底はこんなもんです。

 

 

なにせ、『直観的に正しいと思えるもの』が、

「矛盾を一切生み出さない」なら、

それは「真理」と見分けがつかないので。

 

 

とまあそんなですから、

『恒久的な正しさ』いわゆる「真理」を『人は観測できません』が、

しかし『正しさを実感することはできる』わけです。

 

 

なにせ、明らかに正しく感じられて、

実際、誰も間違いを指摘できないわけですから、

そりゃあまあ、『正しい』ってことにしても良いですよね?

 

 

 

数学の用語では、これにあたるものの1つとして、

『公理』と呼ばれるものがあります。

で、これは『正しいとするほかにない』から、正しいとされます。

 

 

同じく『定義』もまた「正しい」わけですが、

これは『公理』とは原理の違う正しさになります。

 

 

というのも、『定義』は最小単位のようでそうではありません。

なぜなら、数学の最小単位は『実現したいこと』なので。

 

 

『公理』は「体感できる事実」から得られるのに対し、

『定義』は「こういうのを表したい」から得られます。

 

 

具体的には「面積」とか、

より抽象的には「ルール・決まり」とかが定義になります。

 

 

つまり「定義」は『正しいものとして生み出されたもの』で、

「公理」は『正しいとせざるを得ない事実』という感じ。

 

 

人はこれを組み合わせて、正しいものを新しく作り出します。

具体的には「意思決定の材料」とか。

(例えば買い物の時の値段みたいな)

 

 

 

はい、とまあこんな感じです。

つまるところ「正しさを集めて」、

「思考するためのもの」が、数学なわけです。

 

 

「正しいものを集めてる」んですから、

そりゃあ「正しいと思える」のは当たり前ですよね。

 

 

 

 

 


数学と思考

 

結論からいくと、数学は『思考の道具』です。

本質的にその辺の「機械」なんかと大差ありません。

 

 

機械は「原理を知らなくても」使えます。

それと同じように『思考』もまた「原理を知らなくても」使えます。

だってみんな、脳みその使い方なんて意識しませんよね?

 

 

 

で、結論としては、数学は「思考の原理」です。

なぜなら『分かることだけを扱う』ので。

 

 

逆に言えば、

分かんないことは分かんないまま、普通、放置します。

 

 

人は「知っている知識」を前提にして、

思考を経て「分かる結論」を得るんです。

 

 

知らない知識、分からないこと、

そんなものを前提には、普通しません。

正しいかどうかもよく分かりませんし。

 

 

ですから、これらを使うにしても、

知らない知識なら、知ってから、

分からないことなら、分かるようになってからです。

 

 

そして「分かること」だけを使うということは、

つまり「数学」の領域で扱えるということでもあります。 

 

 

まあ、そもそも数学がそういうものを集めた学問なわけですが。

それになにより、元より人間が作ったものですし。

 

 

 

これでなんとなくわかると思いますが、

「数学を知る」ということは、

『思考の原理を知る』ということでもあるんです。

 

 

特に、『思考』で扱うものの中でも、

「分かるものだけ」を扱うのが『数学』で、

それ以外は「現時点では分からない」ものとして処理します。

 

 

こんな感じに、思考と数学は関連してるんですね。

ただまあ、同じではないんですが。

 

 

 

というのも、「思考」では変なものでも導けます。

例えば、いわゆる勘違いや思い込みなどが代表例でしょうか。

 

 

他にも「明らかに変な前提(思い込み・偏り)」から、

「正しい推論」を行って、「正しいと思い込む」という、

こんな感じの主張、論理もよく見かけますね。

 

 

俺は絶対に正しい(思い込み)。

正しいことを言う人が正しい。

だから俺の言ってることは正しい。とか、こんなの。

 

 

他にも「正しい前提」でも、「仮説(そう思いたい)」から、

「正しいかどうかよく分からないもの」を導いたりする場合も。

 

 

俺はあの子が好きだ。

あの子も俺が好きなはずだ。

だから俺たちは相思相愛だ。みたいなのとか。

 

 

単に全部おかしい場合だってあります。

笛は全長90km。神のような顎。だから君はバカなんだ。

みたいな、普通に意味不明で支離滅裂なやつとか。

 

 

 

数学では、こういう感じのものは排除される傾向にあります。

「正しい前提(どう見ても正しい)」を整備してから、

「正しい推論」を行って、「正しいもの」を導くのがメインです。

 

 

つまり『数学』は「正しい前提がどんなものか」を整備していて、

「正しい推論のやり方」もまた整備していて、

「正しいものがなんなのかはっきりさせている」んですね。

 

 

こんな感じに、人が「考えた」上で『間違える理由』も、

人が「考えた」上で『正しいことを導ける理由』も、

納得いく説明をするには、最終的には「数学」が必要なんです。

 

 

まとめると、数学は思考について、

「正しくないと分かる」からなぜ間違えるのかを説明できて、

「正しいと分かる」からなぜ正解かを説明できる感じ。

 

 

 

これの詳しい内容としては、

「正しい前提」を得るための最初の手順として、

まず『公理の性質』である「どう見ても正しい」を使います。

 

 

例えば「見れば分かること」だったり、

「普通に考えればこうだろ」っていうものだったりがこれ。

統語的には『存在する』っていうのが公理の本質になります。

 

 

加えて、こういうのを「定義化(ルールにする)」することで、

「どう見ても正しい、正しいとしておくこと」が出来上がる感じ。

これは本質的には『シルエットの決定』を行ってます。

 

 

まとめると、「正しいと感じられる」し「特に否定できない」なら、

「分かる部分だけ切り取って表現する」ことで形式化して、

『正しいってことにしておいて良い』という感じ。

 

 

で、これらを使った正しい推論のやり方は、

そのまま「妥当な推論規則」を使うだけで、

ただこれだけで「自然に考えれば正しいこと」を得られます。

 

 

 

実例は、それこそそこら中にありますね。

例えば「その存在は本当に悪なのか」とか。

 

 

とりあえず、これを具体的にちょっと考えてみましょうか。

というわけで、まずは前提の確認をします。

 

 

まず、その存在が仮に「全てに対して悪いことをした」とするなら、

「誰もが悪いことをされたと主張する」はずですよね?

 

 

とまあこんな感じに、

冤罪の被害者とかを想定してみてください。

 

 

ともかく、特に脅されているわけでもなければ、こうなるはずです。

逆に「良い事をした」と言って貰えることは無いでしょう。

特に、エピソードまで語ってくれたりとか。

 

 

それになにより、「悪だ」とするのなら、

「大多数が悪だと主張する」はずです。

 

 

次いで、事実確認をしてみます。

一応言っておくと、これも前提として使えますね。

 

 

例え話ですから、とりあえず、

これを「 20 人」に聞いたとしましょうか。

いわゆる「被害者候補」がこの人たちだとします。

 

 

そして「嘘つきは誰だ問題」としてこれを考えるために、

2 人が、「こいつは悪い」と言っていたとしましょうか。

 

 

逆に、他 18 人は、寧ろ良いと言っていたとしましょう。

そしてこの 18 人は、特に脅されているわけではないともします。

ついでに良かったエピソードまで添えて擁護してくれたとも。

 

 

「悪いと言われてる側」と「悪いと言ってる側」の情報、

そして「良いと言っている者」の情報については、

とりあえずこれだけとします。

 

 

さて、ではこの事実を元に考えると、

はて、「嘘つき」はいったい、誰なんでしょう?

 

 

まあ、自然に考えれば、

嘘つきは「悪いと言っている側」に見えます。

 

 

なのでこの場合、

「悪と言われている側が悪」というのは、ほぼ間違いなく嘘です。

 

 

なぜならこの場合、前提として、

仮に「悪」だとするのなら、「誰もが悪だと考える」はずなので。

当然、擁護なんてされるはずはありません。

 

 

この場合、擁護することで利益を得るわけではないのなら、

なにか工作をしている、と考えるのは不自然です。

 

 

もし「悪だ」と主張する側が、

この前提の上で工作をしていると考えるのなら、

それは「悪者にしたい」という執念がとてつもなく強い場合でしょう。

 

 

で、もし仮に「悪いとすることで利益を得る側だけ」が、

その存在を「悪だ」と主張していたとするなら、

それこそ嘘つきはほぼ間違いなく「悪だと主張する側」になります。

 

 

ここまでくると、

「ほぼ間違いなくそう」と判断できるでしょう。

 

 

逆にそうじゃないなら、「ほぼ間違いなく違う」わけです。

ここで「いやあいつは悪だ」とは、自然にはなりません。

 

 

これを具体的に誰・どこがやっているか、というのは言いませんが、

人を悪者にするためにこういう嘘を吐く連中というのは、

それこそそう珍しくはありませんので、皆さん騙されないように。

 

 

 

とまあこんな感じで、数学は人の思考原理を整理します。

そして「ほぼ間違いなく正しいこと」を、

これで導けるようになるわけです。

 

 

ちなみに「答えが出ない思考」とは、

要するになんでもありな哲学的なアプローチのこと。

 

 

んで、これは必ず無限後退な感じのものになります。

というのも、~ってなに?、じゃあ~ってなに?の繰り返しなので。

「公理」も「定義」も疑うということは、要はそういうことです。

 

 

これは哲学の弱みでもありますが、しかし同時に強みでもあります。

なぜならこの無限の問いがあったからこそ、

科学は発展し、数学では『公理』が発見されたわけですから。

 

 

 

 

 


数学と客観性

 

結論から行くと、そもそもの話として、

「人間は」主観的にしか物事を観測できません。

 

 

はい、つまるところ「客観」とは、

ある種の「幻想」なんです。

 

 

なにせ人は、自身の記憶と認識能力の及ぶ範囲でしか、

そもそも物事を判断することはできません。

『誰もがそう思う』という客観性は、持ち合わせていないんです。

 

 

ただし、「限りなく客観に近い主観」は認識できます。

客観との違いは、 100\% か、ほぼ 100\% か。

これは同じようでいて、まるで異なるものなので注意。

 

 

ともかく、人が実感できる「客観と呼ばれるもの」はこれです。

人は本質的に、客観を扱うことはできません。

人が扱えるのは『主観だけ』です。

 

 

 

確認をしておきましょう。

そもそも客観とは、いったいなんのことを指してるんでしょうか?

 

 

多くは「主観とは独立したもの」と、そう考えると思われます。

いわゆる「人間の認知と関係の無いもの」として、自然であったり。

それこそ人間の認識の及ぶ範囲の外のものであったり。

 

 

いわゆる「真理」とか、そんなのですね。

例えば数学や科学の成果なんかは、客観として扱われてます。

 

 

いやでも、ちょっと待ってください。

結局、それを『認識する』のは人間の主観なわけで、

当然の話として、その客観は「人が分かる情報」に変換されています。

 

 

つまり「認識の段階」で、客観はそもそも得られないんです。

人間はその存在を想像できても、結局、認識できていません。

自分が理解できる形に変換しています。

 

 

数式も、言語も、所詮は記号の並びなわけで、

それを解釈するのは人の主観になりますし。

 

 

 

とまあこのように、

客観とは、「人間に認識できないもの」なわけです。

つまり人に客観は扱えません。

 

 

これを数値でざっくりと表すなら、

要は、人は 100\% を扱えないんです。

そう、 100\% は、扱えないものなんです。

 

 

 

はい、このように客観とは人に扱えるものではありませんが、

しかし「客観に限りなく近い主観」ならどうでしょう?

 

 

いわゆる『主観と独立しているように見えるもの』なら、

『客観として扱って良いもの』として認識できるとは思えませんか?

というか人にとっての客観って、要はこういうことではありませんか?

 

 

例えば科学の基礎的な考え方なんかだと、

質量保存の法則やら因果律やら「ほぼ確実に再現できるもの」やら。

これらは『誰も疑わない』し『ほとんどの人が納得できる』ものです。

 

 

で、『人は』こういうものを客観的な事実と言っていますよね?

 

 

であれば、ですよ、

「ほとんど確実に正しいこと」もまた、

いわゆる↑のような意味で客観的なものと言えます。

 

 

であれば当然、『数学』的な事実もまた、

『誰もが正しいと思わざるを得ない』点で、

「客観」的なものとして解釈することが妥当です。

 

 

なにより「数学」は、『正しさの基準』とも言えます。

「科学の正しさ」を保証するものでもありますし。

「哲学」も同様。

 

 

ということは、「客観」の『本質』として、

数学が扱う「ほぼ確実に正しいもの」は、

『客観を定める基準』として使うことができてしまうんです。

 

 

客観を客観として定義するためには、

このように『数学』を使わざるを得ないんですね。

 

 

順番を整理すると、『客観的かの根拠』として、

『数学』という『正しさの基準』が使われ、

その判定の後に、人間は初めて『客観性』を獲得できるわけです。

 

 

 

具体的には「命題論理(かつ・または・ならば)」とか、

「述語論理(~は存在する・全て~だ)」とか、

「様相理論の公理(~は必然的に~だ・~な可能性はある)」とか。

 

 

この辺りをうまく使って、客観性の根拠を述べます。

 

 

で、これら「言語(記号)」の解釈は、

「誰が見てもほとんど同じ」になりますが、

決して『同じ』にはなりません。

 

 

概念の中身は『主観的に決められる』ので、

少なくともこの時点で「客観ではない」わけです。

 

 

しかし、『誰が見ても客観性があるように見える』以上、

これは「限りなく客観に近いもの」と言えます。

 

 

これで分かると思いますが、

『客観的な事実だと思われているもの』の正体とは、

実は『客観性の高い主観的な事実』なんですね。

 

 

 

数学と客観の関連については、

大雑把にはこんな感じです。

 

 

まとめると、

「人に関係なく不変的に見えるもの」とは、

「記号の中身がほぼ確実に同じになる」という感じ。

 

 

具体的には、それこそ『超具体的なもの』とか。

例えば、疲れてて夜で布団があったらほとんどの人は寝る、みたいな。

他にも、嫌な奴がいて辛くて給料低いなら、まず転職を考える、とか。

 

 

こんな感じで、「客観的である」ってことは、

『極限まで主観による偏りが排除されている』ってことなんですね。

 

 

こう見ると分かる通り、

いわゆる「人にとっての客観」とは、

『限りなく偏りが取り除かれた主観』のことなんです。

 

 

 

 

 


そんな数学の扱い方

 

|| なにが正しいって、その時点では正しいからだよ

「こうでしょ」って、自信持って言いたいときとかに使えます。

 

 

よく使えるフレーズとしては、

「ほぼ間違いなく」とか「まず確実に」とか。

いわゆる『だいたい 100\% 』なフレーズですね。

 

 

現実の問題を扱う場合、そもそもの話として、

100\% 正しいことを確認する手段は存在しない」わけです。

故に、「 100\% かどうか」っていう議論にそもそも意味はありません。

 

 

なにせ、どんなに精度が高いものでも、

「哲学的アプローチ」は無限に行えてしまいます。

『公理』にも『定義』にも、疑問を投げかけて良いんです。

 

 

具体的には「~ってなに?」「~の根拠は?」みたいな。

で、これは可能ですから『定義の見直し』に終わりはありません。

それこそ、最終的に確認が不可能な領域に突入する程度には。

 

 

つまるところ「 0100 か」という話では、

そもそも議論の決着点なんてものは無いんです。

『根拠の明示』を求められても、必ずどこかで限界が来るので。

 

 

というわけですから、

分かることは「だいたい 100\% 正しい」だけなんですね。

いわゆる「直感的に正しく感じられるもの」なんかもこれですし。

 

 

 

当然、直観というものは間違え得るものなんですが、

厳密化された直観は間違えようがありません。

 

 

最終的には、「疑うことが不毛な領域」なので。

そして、これがいわゆる『公理』の正体になります。

 

 

で、ここまでくると「疑問に思う方がおかしい」感じです。

例えば、目の前に存在しているものは、確かに存在しています。

これを疑っても、しょうがないですよね?

 

 

つまりここまで考えれば、『正しいとして良い』わけです。

 

 

これを見て分かる通り、

これらを扱う領域は「数学」になります。

 

 

『疑う余地が極限まで減らされている』ということは、

「ほぼ確実に正しい」ということなので。

 

 

 

とまあ、こんな感じに使って問題ナッシングです。

それに非常に便利。

 

 

いや、でもそこまでやれない。

間違えてるかもしれない。

そう思う人もいるでしょう。

 

 

でも、それはそれでいいじゃないですか。

 

 

その時はそう思ってても、

おかしいのなら、おかしいと認めてしまいましょう。

それでも合ってると思うなら、矛盾を排除すればいいんです。

 

 

あ、なんか矛盾が見つかった。

じゃあどっかおかしいんだな、から、

 

 

変なところを探して探して、なんかやばそうな部分をみっけ。

というわけで、それを排除できるように再定義。

 

 

こんな感じに、『ルールを後付け』したりもできます。

何も最初の主張だけで全てを説明する必要はありません。

 

 

で、こうしていけば、

その過程で、自分の思っていたことがやっぱり間違ってなかったり、

「ひどく限定的な状況でしか成立しない」ことも分かったりします。

 

 

 

え、そんなんで良いの? ってなるかもしれませんが、

断言します。良いです。

 

 

ちょっと調べればわかることですが、

数学の歴史なんてそんなもんです。

 

 

割と行き当たりばったりなゆっるーい感じで正しさが決まります。

実際には喧々諤々な粗探しファイティングですけど。

 

 

というのも、具体的には「こうなんじゃ?」から入って、

「いや、ここおかしくない?」ってなって、

「じゃあこうならどうよ」と来るのを繰り返してます。

 

 

はい、こんな感じで「正しさの精度は高まっていく」わけです。

なにも『最初から全て正しいわけではない』と、

そこをきちんと押さえておきましょう。

 

 

まとめると、

最初は「正しいっぽい」ならそれで良くて、

「矛盾が出たら」それはその時考えれば良いんです 

 

 

間違ってたらこう言や良いんです。

じゃあそれなしで、こうしたらOKじゃ?と。

 

 

それでダメでも、もっといろいろ、

例えば制約とか決まりとか作って、正当化してやりましょう。

例外を全て駆逐し終えれば、それで勝利です。

 

 

人間ごときがこの時点で美を求めるのは止めましょう。

泥臭く、真摯に、ただがむしゃらに、見苦しく、

正当化の限りを尽くして足掻くのです。

 

 

全ての反論を駆逐してやるまで、ただひたすら。

 

 

いや実際、数学はずっとそんな感じで発展してきました。

それは科学や哲学に限らず、

形式主義な学問は、いつだってそんな感じです。

 

 

なので、「こうだろ」って思ったんなら、

まずは「こうだからじゃね?」と言ってみましょう。

いや、だって「こうだろ」って思った理由があるんですから。

 

 

ほんで「いや、だったらこれは?」って感じで反論が来たら、

「その時はその時」って感じで返せば良いんです。

 

 

そんなに難しく考える必要はありません。

最初から全て正しいんだと主張する必要もありません。

ただ、正しさの精度を上げていけば良いんです。

 

 

間違っていたら、その時は諸手を挙げて降参しましょう。

でも、そうじゃないなら、見苦しく徹底抗戦です。

 

 

 

 

 


疑いと否定と数学

 

一例として、数学を理解していると、

「疑う」ことと「否定する」ことが、明確に違うと理解できます。

 

 

そして明らかに違ってはいても、

関連はしているってことが分かります。 

 

 

一例としては、

「ほんとにそうなの?」みたいな『疑問』は、

なんだか『否定』っぽい感じがしませんか?

 

 

でも、「それなあに?」という『疑問』と、

「それはおかしいよ」という『否定』は、

果たして同じものなのでしょうか?

 

 

とまあこういった問題を考えるとき、

これを整理できるものとして、数学が使えるんです。

 

 

具体的には、分解して見てみます。

それこそ『抽象概念』を、「具体的にする」ことで。

 

 

自分が良く使うのは以下の 2 つになります。

簡単に言うと「大体 9:1 」と「大体 45:45:10 」みたいな。

 

 

 

 

 

三つに分けるやり方

 

「真(正しい、+)に関すること」と、

「偽(おかしい、-)に関すること」と、

そして「そのどちらかが曖昧なもの」とに分けて考えるやり方。

 

 

抽象的な概念を分析するときとかによく使います。

具体例は、ここでの主題(疑問、否定)でやります。↓で。

 

 

 

 

 

二つに分けるやり方

 

「主なもの( 9 割くらい)」と、

「それ以外のもの( 1 割くらい)」で分けるやり方。

 

 

このやり方が基本的なやり方になります。

↑のやり方は、「主なもの」が 2 分割されてるときとかに使います。

厳密にやるなら↑ですね。

 

 

 

とまあこんな感じで、数学的に、

2 分割」もしくは「 3 分割」で具体化できます。

というわけで、早速その使われ方を見ていきましょうか。

 

 

 

 

 

疑うとは?

 

いわゆる「どうなの?」みたいな感じのやつですね。

というわけでさっそく、具体化して見ていきましょう。

 

 

日本語は似た意味でも表現が多いので、

とりあえず英語の疑問詞を参考にするなら、

疑問が表す意味・目的は↓です。

 

 

一つは「知らないこと」を「知ろうとしている」こと。

一つは「曖昧なこと」の「根拠を得ようとしている」こと。

 

 

だいたいこれで大雑把に分類できます。

もっとざっくりと行くなら、「未知→既知」って感じでしょうか。

 

 

そして次に、未知が介在しないものとして、

「変なこと」の「おかしな点を指摘しようとしている」こととか。

これは「既知?→既知」になるでしょうか。

 

 

大きく分けると、この3つが『疑問』の内訳になると思われます。

厳密には2つの内、1つを2つに分けて3つですね。

 

 

その他は「例外」として括ってしまいましょう。

↑だけで、『ほぼ 100\% のもの』が説明できるので。

 

 

 

というわけで、一つずつ具体例を見てみましょうか。

思いつくとは思いますが、一応。

 

 

「知らないこと」を「知ろうとしている」場合なら、

例えば『意味が分からない専門的な単語』について、

「それどういう意味なんですか?」と聞くとか。

 

 

「曖昧なこと」の「根拠を得ようとしている」ことなら、

例えば『よく分からない主張』に対して、

「どうしてそう思ったんですか?」と聞くとか。

 

 

「既知?→既知」の具体例としては、

例えば『明らかに変な主張』に対して、

「いや、それおかしくないですか?」みたいに聞くとか。

 

 

とまあ、こういうのが考えられて、

「疑問と言える表現」は、ほぼ確実にこの3つのどこかに含まれます。

 

 

 

 

 

否定とは?

 

続いて「いや、そうじゃないだろ」みたいな表現について。

要は「違うよ」っていう主張ですね。

これも大きく3つに分けることができます。

 

 

1つは『誤→誤』の場合で、

「明らかにおかしいこと」を「違う」とすることと、

「おかしそうなこと」を「違う」とすることが。(誤?→誤)

 

 

も1個が『正→誤』の時で、

「正しいけど、否定したい」から「違う」とするパターンが。

いわゆる揚げ足取りとかがこれ。印象操作とかで良く見ます。

 

 

これら以外はあるのかすら微妙なので、例外ってことに。

というわけで、↑で『ほぼ 100\% 』をカバーできます。

 

 

 

てなわけで↑の具体例を。

具体例と言っても、まだちょっと抽象的ですが。

 

 

ともかく「明らかにおかしいこと」を「違う」とする場合なら、

例えば『人間は全員クソだ』みたいなことに対して、

「いや、良い人もいるから全員は言い過ぎ」とか。

 

 

「おかしそうなこと」を「違う」とする場合なら、

例えば『梅雨だけどきっと明日は晴れ』みたいな曖昧な主張に、

「いやどうだろ、違うと思うけど」みたいなのとか。

 

 

「正しいけど、否定したい」から「違う」とする場合なら、

例えば『現状は直接民主制の方がマシ』みたいな主張に、

「でもそうすると変な法案も通っちゃうじゃん」とか。

 

 

3つ目のパターンは反論っぽいですが、実は論点がズレてます。

というのも、「~の方がマシ(より良い)」という主張に、

「~みたいなリスクがある」と返すのは不自然なんです。

 

 

考えてみれば当然で、「どちらが良いか」の議論に対して、

「こういう問題がある」と返すのは、自然な反論ではありません。

そもそも、両方に問題があるのは『前提』に過ぎませんし。

 

 

加えて、本来なら「そっちの方がマシな理由は?」とか、

「自分はそっちより現体制の方がマシだと思います」とか、

反論をするなら、そういう風に返すのが自然なんです。

 

 

こういう否定のやり方は、議論ができない、

もしくはとにかく否定したい人なんかが、

なんらかの意図をもってよくやる傾向にありますね。

 

 

というか、こういうの結構な頻度で見かけませんか?

いわゆる「論点のすり替え」の中でも、

特にそうとは思わせないタイプの代表例がこういうのなんですが。

 

 

ともかくこの事例だと、

『負のイメージの強調』という手法が使われています。

 

 

具体的には、これを積み重ねることによって、

最終的に「否定されたような感じ」にするのが、

この『気付かれ難い論点のすり替え』の目的なんです。

 

 

とまあこのような、『正しいことを否定する』という、

やる理由を疑うような「否定」もまた存在するんですね。

注意しておきましょう。

 

 

 

 

 

否定と疑問の関連

 

疑問の内訳から分かる通り、

疑問の『意図』として、「こいつほんとに分かってんの?」みたいな、

「知ってるけど、あえて確認したい」というものもあります。

 

 

はい、この時に、「否定」の感覚が加わるんです。

他にも『揚げ足を取ってやりたい』みたいな、そんな場合も。

 

 

健全なのだと、『その単語の解釈の再確認』とかがそうですね。

いや、こっちはほとんど見ないんですけど。

 

 

 

これで分かると思うんですが、

これは『疑問を投げかけることで、結果的に否定している』んです。

 

 

つまり疑問と否定は『共通部分がある』だけで、同じでありません。

 

 

で、これは「否定せずに否定する」方法の一つとしても使えますが、

ともかくこの時にのみ、「疑問」は「否定」の意味を持つわけです。

 

 

ただまあ、性質的に、ほとんど意図的なものになります。

加えて、あまり良い理由で行われることはありません。

 

 

なにせ、この疑問を行う目的は単純で、

要は↓の理屈を使いたいんです。

 

 

「よく間違える人の発言」→「その人の発言は間違えている」

だから「その人の言ってることはおかしい」。

 

 

そう、いわゆる「揚げ足取り」を行う場合によく使われるんです。

 

 

まあ、↑の理屈については、

よく見なくても、数学的に見ても、理屈としてはおかしいんですが、

でも、一定数の人はこれに騙されます。

 

 

その理由は単純で、これは『正しそうに見える』んです。

 

 

この原理的な話を大雑把にするなら、

「人は限られた情報しか認識できない」から、

というのが大雑把な答えになります。

 

 

言語(記号)的な理由としては、

「~の可能性がある」(様相理論)の解釈の曖昧さとかもそうですね。

 

 

つまりこれ、代表的な「直感による錯覚」なんです。

で、これは印象操作とかでよく使われる手法の、

基本的な原理になります。

 

 

 

ともかく数学的に解釈すると、実際には、

「よく間違える人」は「間違えることが多い」というだけで、

必ず間違えるわけではありません。

 

 

これが事実です。

↑のやつは「全て」ですから、言い過ぎですよね?

 

 

自然に考えて、『一度だけ間違えた』からといって、

『他の発言も全て間違えている』なんてことにはなりません。

なにせ『他のことは間違えていない』わけですから。

 

 

それになにより、「めちゃくちゃ正しい人(ほぼ 100\% )」も、

単なる事実として、『間違える可能性はある』んです。

 

 

つまり「間違えたから」という事実は、

↑のような「だから全部おかしい」を意味しません。

 

 

正しくは「人間は間違える可能性がある」ことだけを意味します。

でもこんなの、当然の話ですよね?

 

 

でも↑の手法を使うと、この当然を当然と思えなくなります。

 

 

特に「その発言者を知らない」場合、

『限られた情報しか持っていない』ので、

その1度の間違いだけが強調されることになるんです。

 

 

こうなると、自然に考えれば1度の間違いなのに、

「印象」に引っ張られて、説得力が無いように感じてしまう、

とまあこういうわけなんですね。

 

 

 

 

 

人間の曖昧な数値感覚

 

話は変わって、例えば「多い」という表現ですが、

皆さんは具体的にどのくらいの数値を想像しますか?

 

 

例えば「 7000 万人」は多いでしょうか?

割合にして「全人口の 1\% 」くらいですが、

割合で見る感覚と、具体的な数の感覚は、同じですか?

 

 

他の例を考えるなら、

例えばよく間違えるという場合でも、それこそ普通に考えれば、

10 の主張の内 3 」くらいでも相当多いでしょう。

 

 

逆に考えれば「 7 割」は間違いではないんですが、

この割合を少ないと感じますか?

 

 

これを見て貰ったら分かると思いますが、

人間の数値感覚というのは、状況によって、

また見え方によって結構変わってしまいます。

 

 

これで言いたいことはなんとなくわかると思いますが、

「多い」と「全」は異なる概念で、

更に「多い」としても、過半数を意味するわけではありません。

 

 

で、この事実を考えると、

↑の「揚げ足取り」の理屈が破綻していることを説明できます。

 

 

まとめるなら、

「間違える可能性が高い(例えば 10\% 以上)」ことと、

「全て間違えている( 100\% )」は、根本的に異なる話なんです。

 

 

 

 

 

とまあこういう感じですが、いかがでしょう?

『数学的に判断すること』は、きちんと日常に溢れていますよね?

テレビとか新聞とか、それこそ人間関係とかで↑はよく見ますし。

 

 

 

とはいっても、これだけじゃまだ具体性が乏しい気がします。

なので、より具体的な話も見てみましょうか。

 

 

例えば「印象操作」の具体的なやり方であったり、

その『対処の方法』であったりとか。

 

 

 

 

 


印象操作と数学

 

|| 人が扱える情報の量は限られている

この原理になる基礎的な仮説(ほぼ確実に正しい)は、

『人が意識できる情報の量は少ない(多くて 10 くらい)』です。

 

 

仮説とは言っても、まあ正しいですよね?

それこそ私を含め、皆さんが体感している通り、

『同時に扱える情報の量』は少ない(大体 3~5 )です。

 

 

それにこの「少ない」を『 1~9 』と定義すれば、

曖昧さもほとんど解消できます。

 

 

というわけで、これを正しいとして話を進めていきましょうか。

 

 

 

 

 

印象とは?

 

ここでも基本的な原理(公理)を使います。

その原理とは、『人には、知らないことが存在する』です。

すごく当たり前の話なので、とりあえず採用しましょう。

 

 

この基本原理から分かる通り、

人は「第一印象」を『最初の少ない情報』で形成します。

 

 

で、「その後の印象」は、

『情報を追加』することで形成されるわけです。

 

 

つまるところ、最初は判断のための材料がそもそも少ないわけで、

「第一印象」というものは、『先入観(事前知識)』と、

『初めて得た情報(初対面での対応とか)』で決定されるんです。

 

 

そして『その後の印象』は、

この「第一印象」をベースにして更新されていきます。

 

 

ただ、この更新を考える上で重要なこととして、

これを行うには、当然『情報を得る』必要があるんです。

逆に言えば、これなくして更新は起きません。

 

 

ともかく、具体例としては、

例えば「ある人物に対する印象」で考えるなら、

 

 

「こういう人だ」とか「君らしい」みたいな、

こういう『大雑把な外観』が、印象と呼ばれてるものなんです。

 

 

まとめると、「印象」というのは、

最初の少ない情報から得られたものは『第一印象』と呼ばれ、

精度が上がったものは『全体の大まかな外観』を表す、という感じ。

 

 

つまりどちらにせよ、

「こんな感じ」という『大雑把な感じ』を指して、

人はそれを印象と呼んでいます。

 

 

 

 

 

第一印象の重要性

 

ここでもある種の人の原理を。

物理的な話、「エネルギーの節約」の観点から、

「人は基本的にほとんどのことをしたくない」ことが一つ。

 

 

そして↑の原理から導かれるものとして、

人は『現状を維持したがる傾向が強い』ことも。

 

 

つまるところ、『人は変化が基本的に好きじゃない』んです。

あくまで「傾向」ですから、そうじゃない人もいますが。

 

 

 

ともかく、この原理から分かる通り、

人はなかなか「第一印象」を覆せません。

 

 

まあ、覆せないというより、

厳密には、『第一印象を更新するのが面倒』なんです。

 

 

このため、基本的に、

「第一印象」が『印象のベース』になってしまいます。

 

 

身近な具体例を出すと、

皆さん、数学の印象はほとんど第一印象(難しい)じゃないですか?

要はまあ、こういう話です。

 

 

 

 

 

第一印象を使った印象操作

 

第一印象の性質から分かる通り、

「第一印象を操作」すれば、「印象は操作できる」わけです。

それこそ『それをよく知らない不特定多数』の印象とかは特に。

 

 

なにせ↑で語った通り、

大半の人は『深く知ろうとしない』なわけで、

であれば必然、印象の中に占める第一印象の重要性は高くなります。

 

 

ですから、例えば『ある人物を悪者にしたい』なら、

それこそ単純に「第一印象を悪くすれば」良くて、

 

 

逆に『あの集団を好きになって貰いたい』なら、

単純に「第一印象を良くすれば」良いんです。

 

 

それこそ「悪い部分だけ強調する」とか、

「良い部分だけ強調する」とか、そんな感じに。

 

 

まあ、これだけなら割と誰でもやることではあります。

 

 

言ってしまえば、ほんと、ただこれだけ。簡単ですよね?

印象操作というのは、原理はすごく簡単なんです。

 

 

特に「多くの人に情報を届ける存在」にとっては、

その実行すら簡単なんです。

 

 

それこそ「マスメディア」を筆頭に、

他にも「有名人」であったり、

それらを動かす「権力者」なんかにとっては超簡単。

 

 

まとめると、

第一印象の性質と人の面倒くさがりな性質から、

第一印象を先手で操作できると、印象も操作できます。

 

 

特に「不特定多数に情報を発信できる」もの、

例えばマスメディアなんかは『大衆の持つ印象』を決定できます。

実際よくやってますし、なにより超簡単にできてます。

 

 

 

 

 

印象をゆっくりと形成する印象操作

 

どれも「第一印象」がベースになりますが、

当然の話、「対象への大まかな感覚」だけではなく、

『価値基準』に当たる「印象」も操作することは可能です。

 

 

具体的には、『わざわざ調べない』ことを前提に、

短期的に何かを貶める・褒めることで大衆の印象を決める方法に対し、

こちらは長期的に、今度は『環境』へ影響を及ぼす感じです。

 

 

やり方としては、

いわゆる「追加の情報」を『長い間』与え続ける、というもの。

 

 

このやり方は、最初期には効果が表れませんが、

時間が経つにつれて効果が出てきます。

 

 

じわりじわりと印象が形成されていくので、かなり強力。

気付いたら、「そのなにか」に対して印象が固定されてる感じです。

付随して、大半の人は気づきもしません。

 

 

いわゆる『洗脳』の代表例とも呼べるのがこれ。

 

 

感覚的には、例えば特定の何かに対して、

特に理由も無く「これは良い」とか「これは悪い」とか、

『いつのまにか』判断するようになってませんか?

 

 

具体的には『常識』とされるものは大半がそうでしょう。

「嘘を吐いてはいけない」とか、「労働は尊い」とか、

「雇われ以外で金を稼ぐのは普通じゃない」とか。

 

 

よく考えると、別にどれもそんなことありませんよね?

「人を傷つける嘘」はダメでしょうけど、

「嘘の全て」がダメっていうのは、明らかに変な考え方ですし。

 

 

とまあこんな感じで、

これは「環境」によって『偶然』に形成されることがありますが、

当然、これは『意図的』に形成されることもあります。

 

 

やり方は↑に書いたように単純で、

単に「さり気なく、高い頻度で、特定の情報を与える」だけです。

当然、「嘘」でも構いません。倫理的にはアウトですが。

 

 

具体的には、例えば『ある国に良い印象を与えたい』なら、

「多くの人が~」とか「今流行の~」とか、

そういうことを大衆に、継続的に言い続けるだけです。

 

 

他にも個人レベルなら、「褒める」とか「貶す」とか。

あること無いこと、継続的に言い続ければ印象を形成できます。

 

 

とはいっても、中には特に誰も困らない事例もあって、

それは例えば「事実ベースで褒める」とかですね。

これはまあ、特に誰も不幸にならないのでやって良いと思います。

 

 

悪い事例だと、毒親とかがよく使う手法はまずいですね。

「自分に感謝しろ」とか「あいつとは付き合うな」とか。

こういうのはアウトです。

 

 

 

 

 

正しさを数で封殺する印象操作

 

印象操作には『多数決の原理』を利用する方法もあります。

いわゆる社会的証明(みんなそうだから)を使ったやり方がこれ。

 

 

このやり方は悪用されるのをよく見る気がします。

具体的には、『正しいけど都合が悪い意見』を否定する場面とか、

いわゆる大衆が絡む政治の世界とかで、このやり方はよく見ますね。

 

 

この原理については、

「意識的に処理できる情報の量」が深く関係しています。

 

 

とりあえず、これを使うとどうなるかの流れを見てみると、

『否定できているような錯覚を作る』ことによって、

「結果的に否定する」という感じ。

 

 

このやり方の詳細なんですが、ざっと言うと、

『正しい主張』の「否定的な根拠の方を多くする」ことで、

「間違っているかのような印象を形成する」んです。

 

 

これで「否定する根拠」と「肯定する根拠」の、

『数を傾ける』ことで、根拠の『質は関係なく』、

「正しくないように見える」状態を作ります。

 

 

まあ、これでは数値感覚のある賢い人は騙せませんが、

しかし、これで「大衆の一定数」は騙せるんです。

この辺りは集団の教育水準に依存します。

 

 

ともかく事実として、例えば「流行」は作れます。

実際には流行っていない場合がほとんどなわけですが、

しかし、大衆の一定数は流行っていると錯覚しますよね?

 

 

ざっと説明すると、要はこういう錯覚を利用するやり方です。

これで最善を最悪に、間違ってるものを正しいものにできます。

 

 

簡単にまとめるなら、

『みんなが言うならそうなんだろ』って感じのやり方。

当然、正しいかの保証はけっこう微妙です。

 

 

 

とまあこんなやり方なんですが、

基本的に、これは賢人を気取った連中がよく使う手法ですね。

だいたい『正しいけど都合が悪いこと』を否定する場合に使われます。

 

 

流行の事例はそんなに悪いものではありませんが、

この説明で分かると思いますが、凡そ『なんでも否定できる』ので、

これを使うやつのほとんどは碌な奴じゃありません。

 

 

分かりやすい表現にすると実感しやすくて、

要はこれ、悪く言うと「揚げ足取り」なんですよ。

 

 

この字面で納得できると思いますが、

「使われる目的」に、良いものはほとんどありません。

 

 

実際、例えば正しいものを正しいとする時、

この手法はあまり使われません。

 

 

逆によく見られるのは「正当化」ですね。

おかしな主張を押し通すために、

正しそうな根拠だけを並べ立てて、正しそうに見せます。

 

 

まあ、そもそもこれ本質的に『錯覚を利用する』やり方なので、

正→正 のパターンだと、使う理由がそんなに無いんですよ。

 

 

逆に、正しい主張を否定する場合っていうのは、

大きく分けると『都合が悪いから否定したい』っていう、

「正当化」っていう分かりやすい理由があるので、よく使われます。

 

 

その場合でよく見るやり方は、

『どうにもならない部分・例外』に注目するっていう、

いわば論点ズラしですね。これほんとよく見ます。

 

 

数値感覚としては、

「正しさ 99\% 」に対して、

1\% 」の部分に目を向けさせる感じですね。

 

 

総体として「 99\% は正しいまま」なんですが、

多くの人は数値感覚に乏しいので、

『根拠の量の比重を傾ける』と「 99\% が見えなくなる」んです。

 

 

なんとも残念な話ですが、

このように数値感覚が乏しい場合、

99\% 正しい」ことが見えなくなって、騙されちゃうんですね。

 

 

 

こんな感じに、正しさとはなにか、というのも含め、

こういう手法も学校じゃ習いませんから、

どうしても、多くの人は騙されちゃいます。

 

 

それと、これを使う人なんですけど、

大まかには、分かっていてやってるか、馬鹿かのどちらかですね。

 

 

ほとんどの場合、正当化か大衆扇動で使われるので、

つまり、騙せることが分かってる上で使われます。

 

 

ですから、みなさん、騙されないように注意しましょうね。

 

 

 

多数決の原理を利用した具体的な話

 

↑だとちょっと抽象的かもしれないので、

「多数決の原理」を悪用した具体例をちょっと紹介。

 

 

例えば「 10 人」しかいない状況で、

2 人」が正しいことを言っていて、

でも「 8 人」が間違っているという姿勢を貫く場合。

 

 

さて、この場合、全体の空気はどうなるでしょう?

なんか、正しい方が間違ってる感じになりませんか?

 

 

実際には、テレビの討論番組とかでよく見るやつですね。

賢ぶった自称なんちゃらの人がスポンサーの意向を優先して、

生産的な意見を言う人の邪魔をする、あの感じ。

 

 

初めから自分の意見を押し通すことしか考えていないので、

当たり前のように無理めな批判をしたり、

論点をズラしたりします。

 

 

逆に、自分の意見に対する批判は全て無視です。

で、そういう頭がアレな人が多数派を気取る。

よく見る光景ですよね?

 

 

まとめると、過半数以上の人を用意して、

都合の悪いこと → どうにもならない例外を指摘

間違いを指摘される → 無視    この2つをするだけ。

 

 

これで、よく分からないことでも正しい感じにできますし、

逆に正しいことを間違いにすることもできます。

 

 

体感 50\% くらいの人は騙されないんでしょうけど、

それでもこれに騙される人が一定数いるかと思うと、

いやほんと、なんだか悲しくなりますね。

 

 

騙す方がほぼほぼ悪いんですけど、

騙される方もなんだかなあって感じ。

 

 

 

 

 

意地の悪い印象操作への対処法

 

結論としては、↑のような印象操作のやり方や原理を知ること。

これが、やはり一番の対策になるはずです。

 

 

 

それこそ正しさを見失わない目を養う意味でも、

学校の数学ではなく、数学を学んでみるとか。

 

 

というのも、数学は「正しさを扱う学問」です。

であれば「正しさを見失わない」ためにも、その価値はあるはず。

(印象操作)

 

 

 

おちゃらけ無しにしても、

実際、この記事の論理展開やらなにやらには、

数学の知識をふんだんに使っています。

 

 

ですからまあ、興味があればぜひぜひ。

学ばないにしても、好きになっていただけると個人的には満足です。

 

 

 

というわけで、話は戻って、

数学的に見た具体的な対処法を見てみましょうか。

基本は「正しいとするしかないこと」をベースにします。

 

 

 

 

 

印象を操作されているかどうかを見抜く

 

一つは、発信された「情報から受ける印象」を使って、

どういう印象を与えたいのか、という『意図』を考える方法が。

 

 

いわゆる「つまり何が言いたいの?」ってやつで、

『受けた印象』を、そのまま「言いたいこと」として受け取って、

それを、ほんとにそう? と自分で考える感じ。

 

 

これで「受けた印象」と「自分の意見」を分離できます。

 

 

具体的には、例えば何言ってるのかよく分かんない人っていますよね。

なんか、結局何が言いたいんだろ、って人をよく見ませんか?

 

 

例えば、テレビの討論番組とか、国会討論とかで。

 

 

でまあ、その辺見てみるとよく分かりますけど、

あれは「印象を作りたい」だけで、

そもそも、分かるように話していません。

 

 

つまり「何言ってるかよく分からないように」したくて、

なんか「印象だけは伝わる」ように話すと、ああなるんです。

(権威でゴリ圧しとか)

 

 

そう、分かりやすいことを敢えて言わないで、

例えば「意味が伝わりにくい専門用語」なんかを連発して、

「正しいことを言ってる雰囲気」を作る、あの感じ。

 

 

こうすると、なんか正しい感じが作れてしまって、

肯定なら肯定しているように、

否定なら否定しているように見える、というわけです。

 

 

で、こういう「受けた印象」を使うと、

それが「どういう印象を与えたいか」導けるんですね。

 

 

 

より具体的な使い方としては、

例えば「フェアじゃない」いわゆる「情報が偏ってる」事実から、

『偏らせてる』ことを読み取れます。

 

 

片方の味方だけをしているような発言ばかりだと、

「片方の印象を良くしたい」と、そういう意図が伝わりますよね。

逆に「味方の敵を貶めたい」ってことも読み取れます。

 

 

とまあこんな感じに、「偏り」を意識すると、

けっこう簡単に印象操作を見抜けます。

 

 

 

 

 

自分の印象を操作された時

 

当然ですが、個人レベルでも印象操作は起きます。

実際、家族・友人が自分に対して持っている人物像とか、

なんかそういうのありますよね?

 

 

他にも、いわゆる「知り合い」が自分に持つ印象であったり、

それこそ「社内」での「同僚」が持つ自分の印象であったり。

 

 

 

つまり、実生活レベルで印象操作は起き得るもので、

「悪印象を持たれる」っていう被害に遭うことも、

わりと身近に、十分にあり得ることなんです。

 

 

それが「自分の行い」によるものであれば正当ですが、

中には『誹謗中傷』によって印象が形作られることもあります。

ここで見ていきたいのは、こういう時の対処法ですね。

 

 

 

一つは『第一印象を良いものにしておく』方法が。

ただまあ、これは初対面時にしか使えない上に、

あくまで予防的なものですね。

 

 

具体的な話は長くなり過ぎるのでほとんど省きますが、

一例としては、「悪い人じゃない」と思わせれば十分。

それを戦略目標として、第一印象を構築します。

 

 

これをやるための基準は、調べるのが一番ですが、

基本的には「自分から見てどう思うか」を参考にしましょう。

他人も自分も人ですから、好印象の条件は似たようなものなので。

 

 

ただ、『主観をできるだけ排除した基準』を使ってください。

良い感じなのは、「普通」とか「常識」とか「優しい」とかですね。

より具体的なものだと、「よく話を聞いてくれる」とか。

 

 

こんな感じで、「誰もが良いと感じられる基準」を使って、

自分から見て「悪くない人」をイメージすればOK。

 

 

ただまあ、演じ過ぎると挙動不審になるなら、これは難しいですね。

そこまでの対人スキルが無い場合だと、これは使えません。

でもまあ、これに関しては努力するしかないと個人的には思います。

 

 

 

ともあれ、そこに自信が無い場合であれば、もう素でいきましょう。

それで嫌われるなら、それはそれでいいじゃないですか。

自分の素はそういうものだと、そう学習できますし。

 

 

それに、素でOKな人だけ大事にすれば良くないですか?

嫌われても良いと思える図太さがあるなら、

そういうのでも良いと思います。

 

 

逆に好かれたいなら、努力するしかないですね。

というか、好かれてる人はだいたい努力してます。

 

 

 

まあともかくこんな感じに、

先手で『自分の印象を自分で相手に形成させる』ことで、

誹謗中傷などの「印象操作」を回避できます。

 

 

雑な流れとしては、誰かが「印象操作」をしようとしても、

ほとんどの人は変化を面倒くさがるので、

先に植え付けられた「第一印象」が優先される、という感じ。

 

 

感覚的には、仲の良い人は悪口を信じない、みたいな。

悪口を真に受けるのは、いつだって知らない人の一部。

要はそういう話です。

 

 

 

 

 

とまあ「予防」についてはこんな感じなんですが、

「対処的なもの」は、これと比べてけっこう大変です。

既に植え付けられた『悪い第一印象を覆す』他に無いので。

 

 

先手を取られている状態からスタート。

当然ですが、このパターンは基本的に不利です。

「悪い第一印象」を取り返すには、相応の戦略が必要になります。

 

 

有名なやり方としては、ギャップを作る方法とかが良い感じですね。

「過激(悪印象)」→「真剣(過激な理由)」みたいな。

他にも「嫌味っぽい」→「明るく爽やか(真逆)」とかも使えます。 

 

 

例えば、なんか嫌われてるんなら、とりあえず↓みたいに。

「なんか嫌われることしましたか?」と聞きましょう。

(嫌悪の理由を引き出す)

 

 

ここで嘘を吐かれてたら訂正するだけなので簡単なんですが、

事実が交ざっている場合は、きちんと詳細を聞き出しましょう。

「どんなこと言われたんですか?」みたいに聞いて。

 

 

んで、こうして得た情報を使って、

「嫌悪」を感じた部分を覆すような、そういう振る舞いをする感じ。

 

 

この場合、漠然とで良いので、

「ちゃんとしてる」とか「普通」とか、

そういう風に思ってもらえたら上々です。

 

 

誹謗中傷の類なら、単に自然にしてればそれで十分だと思います。

 

 

要は「言われた通りに嫌悪感を抱いたか」が重要なので、

その感じを一切出さなければ、基本的にはOK。

感覚的には、自分が嫌だなと思うことをしなきゃいいだけです。

 

 

 

 

 

最後に、よく見る厄介な『嘘じゃない』悪口ワードを紹介。

これを使うと簡単に悪印象が形成できるので、悪用は厳禁で。

 

 

 

 

 

 

一つは「嘘を吐く」。(あいつは嘘つき、とか)

嘘を吐かない人なんて恐らくいないので、この悪口、真実です。

残念ながら、これを完全に否定することはできません。

 

 

でも、それでも「完全否定」しましょう。

「部分否定」をすると、よく聞いてない人は騙されてしまいます。

なのでここは、否定するなら、完全否定の一択です。

 

 

無茶苦茶ですが、嘘つきだっていう悪口に対しては、

本当に嘘を吐いて「違う」と言うしかありません。

 

 

具体的には、例えば↓みたいに、

「嘘なんてぜんぜん(大体 100\% )吐いてない!(今は)」とか、

こういう言い回しでも良いでしょう。

 

 

この場合だと「限りなく真実」なので、嘘じゃなくなります。

詐欺っぽい数字のマジックですが。

 

 

それと他にも、「無視する」というのも割と効果的です。

取り合わず、発言者をいない者として扱う感じ。

 

 

総じて、こういう連中は具体的なことは何にも言わないので、

「なんか言ってる」って感じにしてしまえば流せます。

それに、よく聞いてない人はどうせ「すぐに忘れます」。

 

 

しつこくても、とにかく無視しておきましょう。

相手にしてはいけません。

 

 

あんまりにしつこいなら、完全否定するか、

うるさい、しつこいという感覚を「周りに共感」させましょう。

ここまで来ればほぼほぼ盤石。

 

 

 

嘘に関してはこんなもんですね。

「証明できない」という性質が、この話の核でしょうか。

 

 

 

 

 

ミス

 

他に「間違える( 2,3 個の事例だけ)」とか。(失敗も)

これもまた、実例があると嘘にはなりません。

間違えない人間もまた、恐らくは存在しないので。

(赤子とかは例外で)

 

 

これの対処法ですが、結論としては、

具体的な事例が無いなら、「完全否定」と「無視」でOK。

具体的な事例があるなら、「完全否定」は悪手です。

 

 

まあ、「無視」するのがやはり一番良いです。

それも、「反応しない」「認めない」という感じで、

話の流れを逸らして、「論点を変える」ことを目標にすると良い感じ。

 

 

否定は絶対になしです。

否定すると、それは嘘になるので。

ですから全力で逃げましょう。

 

 

逃げるってのは、要は違う話をする、とかです。

違う話をしていればそちらの方に話題が移るので、

とにかく別の話題で場を誤魔化しましょう。

 

 

具体的には、「本題に話を戻す」とかは常套手段ですね。

これやるとけっこう簡単に逃げられます。

 

 

で、これでも無理なら、最終手段。

いわゆる「共感の利用」を行いましょう。

「誰だってそのくらいのミスするじゃないですか」みたいな感じで。

 

 

 

ただ、不祥事レベルの大失敗なら、素直に「謝罪」の一択です。

それも平身低頭、言い訳も矮小化も無しで、全力できっちり謝ります。

できるだけ簡潔に、いやらしさを絶対に見せないように。

 

 

 

とまあ、「ミス・間違える」に関してはこんなもんですね。

具体的な事例がある場合は否定が封じられるので、けっこう厄介です。

共感を得る以外の方法だと、回避の道筋は薄いですね。

 

 

 

 

 

悪い

 

他に厄介なのは、「悪いことしてる( 1,2 個の事例)」とかも。

これもまた嘘ではありません。

恐らく悪いことをしたことがない人もいないので。

 

 

 

これについては、「間違い」と似たような感じになります。

アウトなやつなら「謝罪」の一択です。

そういう類の悪事なら、これ以外はあり得ません。

 

 

ただ、いわゆる「大したことないことを誇張してくる」場合には、

謝罪は寧ろ悪手で、「逃げ」が一番良いと思います。

具体的には「論点のすり替え」とかで。

 

 

より具体的には、話題の「矛先を逸らします」。

例えば、人が自分に目を向けている状態から、

「別のやばい奴」に矛先を変える感じ。

 

 

これで結果として、

自分の悪事を「フラットに戻す」ことができます。

 

 

なぜなら、人は「別のやばい人の話題」に注目してますから、

「大したことのない悪事なら」霞んでしまって、

多少の悪さに対して寛容な感覚を持たせることができます。

 

 

とまあ、こうすれば「誇張」での悪印象を回避できるわけですね。

 

 

ただ、これは「誇張」が事実ベースで、

更には嘘が無い場合の話なので、あまり直面することはないかと。

ただまあ、テレビとかではよく見ますが。

 

 

 

というわけで、次は「誇張」で「嘘を吐かれた」場合の話を。

 

 

この場合だけは「完全否定」が使えます。

これは「部分的に真実」の場合でも使って良いです。

それこそ、大袈裟に否定しましょう。

 

 

攻撃と防御についての話をしているので分かると思いますが、

防御のために攻撃を使うこともできます。

つまり、相手が嘘を吐いた場合は、非常にやりやすいんです。

 

 

なぜなら、そこをひたすら突いて、嘘つき呼ばわりすれば良いので。

もし嘘を吐かれたら、そりゃあもうしつこく突っついてやりましょう。

悪意には、悪意です。

 

 

 

 

 

とまあ、「悪い」についてはこんなところですかね。

よく見る悪意への対処法でしたが、如何でしたか?

数学、強い。俺、勉強する。そう思えましたか?

 

 

 

 

 

はい、というわけでこんな感じです。

印象もまた、こんな感じで数学的にあれこれできます。

 

 

例としては↑みたいなのが代表的ですね。

この辺りを押さえておくだけで、大分変わると思います。

主に「考え方の基準」とかが。

 

 

他にどんな風に自由に扱えるかについては、

『実用的数学』の項目でやっていきます。

興味ある!って人は、是非ご覧ください。