公理 Axiom


|| いろんな解釈があるような無いような

とにかく「正しいと思うしかない前提」とか、

とりあえず「真と仮定される命題」とかを、公理と言います。

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言い方はいろいろありますが、

『公理』とは、つまりは「真としておく命題」のことです。

 

 

より厳密には「確認のしようがない」という、

いわば『検証が今のところできない』ものに限るわけですが、

 

 

ともかく、これは『明らかに正しい』もので、

「正しいとする」としておかないと、

話が進まない感じの「仮説」になります。

 

 

 

まあすごいざっくりと言うと、

要は『それが正しいとは証明のしようがない』けれど、

「正しいとしか思えないようなやつ」のことを公理と言う感じ。






具体例


例えば「りんごはりんごである」

みたいなものが公理になります。

 

 

いわゆる『同一律』と呼ばれるものなんですが。

 

 

ともかく、「自分は自分である」みたいな、

そういう『確かめようがない』けれど、

「明らかに正しいもの」を公理と言います。




まあこれを見てわかると思いますが、

これを正しいこととして扱わないとすると、

なんか、いろいろおかしくなりますよね。

 

 

「同じ」っていう考え方を扱えなくなりますし、

なにより、そもそも『間違ってると思えない』ですし。






どういう使い方をされるか

 

基本的には『ベースとなる事実の確認』で使います。

 

 

どういうことかというと、

例えば『論証』について考えてみてください。

 

 

ついでに、なにか結果、

例えば「昨日はカレー食った」みたいなことも考えて、

 

 

その上で、これを「証明」してみる

となると、あなたはどうしますか?

 

 

まあ、だいたいは「覚えてたから」とか、

「キッチンに昨日の残りがあるから」とか、

なんかそういうのを根拠にすると思いますが、

 

 

さて、その『事実』が『正しいとする根拠』は、

いったいなんなんでしょう?

 

 

 

もちろん『事実』は『事実』なんですが、

例えば「記憶」なんかが『事実だと分かる』のは、

当人だけです。他人には分かりません。

 

 

「昨日の残りがある」にしても、

仮にそれを破棄された場合、

あるいは『あなたが食べたかどうかわからない』場合、

 

 

「昨日カレー食った」は、

同様に証明が不可能になります。

 

 

 

でもまあ、事実は事実じゃないですか。

「自分にとってそれは明らか」で、

それ以上の根拠は『特に必要無い』です。

 

 

 

はい。まあこういう感じに、

『明らかなことはとりあえず明らかとしておく』みたいな、

 

 

「こういう感覚」を厳密にしたものが、

実は『公理』なんですよ。

 

 

 

記憶に「正しいという保証がない」し、

「事実が事実である厳密な保証はない」けれど、

『明らかに正しいから正しいとしておく』

 

 

「昨日の残りがある」から、

『明らかに正しいとしておく』



こういう「無意識の仮定」が、

『公理』の感覚なんですね。

 

 

 

 

 

とまあ、こんな感じに定められたのが『公理』なんですが、

もちろん、根拠の強度は↑の話より遥かにガチガチです。

「正しいとしておく理由」もわりと厳密になります。




↑の話だと「面倒だから」

正しいということにするわけですが、

 

 

『公理』の場合はそういうのではなくて、

「どう見ても正しいから」正しいということにしている

という点で明確な違いがあって、

 

 

 

そのせいで『公理』は、

誰も「間違ってると証明できません」し、

かといって、誰も「正しいと証明できません」

 

 

けれど「明らかに正しいとするしかない」から、

「正しいとしておかなければならない」

そういうのが『公理』なんです。






厳密な意味


以上のことを踏まえて、

形式的な意味について書いていきます。

 

 

文献とか資料に載ってるのは主にこっちですね。

どういうものかってのはあんまり見ません。(これはマジで謎)




堅い言い方になりますが、

『公理』とは、要は↓みたいなものです。


「論証抜き」で「真である」と「仮定」される

根本にある『命題』

 

これを意訳すると、

「正しいってことにするしかないこと」

みたいな感じになります。



これが『公理』の形式的な意味なんですが、

なんか難しい言い回しですよね。

よく分かんないです。