政治ってなに?


|| 人と集団と、集団の意思が見せる現象

注目すべき必要最低限の項目は、『人の関係』と『思想』です。

『人が集まる』とき、必ず『政治』は発生します。

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目次


政治『人の集まり・社会をあれこれする現象のこと』


   人間関係『人同士の付き合い方』


   集団『集まることで良い事がある』


   思想『なにを正しいとするかの集まり』

   代表者『グループの意思決定を行う人』

      権力『集まりの意思決定を行える力』




身近な政治『人が実感しやすい領域の話』

   家庭『家庭内での人間関係と思想』

   知人『知人間での関係と普通』

   学校『クラス内での地位と常識』

   職場『上司や同僚や部下との関係と姿勢』



大局的な政治『あまり実感の無い政治』

   外交『国と国同士の折り合いをつける感じ』

   国内『国に属する人の誰が代表者になるか』

   地方『その地域でのあれこれ』








昨今では『政治』というと、なんだか縁遠いような。

そんな感じに思う人が多いように思います。

まあ、これは筆者の個人的な感覚ですが。



ともかく、『政治』というと「国政」の感覚が強いです。

なので、なんだか堅苦しい印象があるように思えます。



『政治』というとそんな感じですが、

いや実際、政治って本当に堅苦しいものなんでしょうか?

思っているほどに、縁遠いものなんでしょうか?




結論から行きますと、

『人と人とが関わる』時、「政治」は発生します。

これは1人と1人でも言える話です。



ですから、決して縁遠いものではありません。

日常的に自然に触れていますので、堅苦しくもないです。




というわけで、まず感覚的な話をしましょうか。

前提として、『人と人は異なる』という話から。



大雑把に確認すると、

まず『同じ人間は存在しない』わけで、

であるからこそ『上下』という関係は生まれます。



ここで言う上下は細かな上下の話で、全体のそれとは異なります。

いわゆるケースバイケースでの上下の話。

これが総体として、全体の上下を決める根拠になる感じ。




んで、これはどれだけ公平性を担保しようと変わりません。

全員が下になっても、相対的に誰かが上に来ます。

結果、上下もしくは優先度の高低は必ず生じるわけです。



公平性を高めようが低めようが、

原理原則の上では、個人間で平等が実現されることはありません。

平等はあくまで「全体を捉えるための道具」に過ぎません。




であれば、仮にその間に『関係が生じる』のなら、

当然の帰結として、『折り合い』が不可欠になります。



要は、人って平等じゃないじゃん?

グループの決め事はリーダーが決めるじゃん? って話。




身近な例で考えてみれば、これはいくらでも実感できるでしょう。

例えば「親と子」であれば、子は親に逆らえません。



親と子の二者の関係は明らかに上下がありますし、

『家庭』という単位では、親の意思が優先されます。



知識と経験の量も、経済力も人脈もまるで異なるわけですから、

ここに「子供は下」で「親は上」という『関係』が生まれ、

その『権威』によって「集団の意思」は決まるわけです。



国政と比べるとスケールが小さいだけで、

これも立派な政治でしょう。



身近というのは、要はこういう感じからきています。




ともかく、こういう事例はいくらでも存在します。

探せば思い当たるものは尽きないくらいに出てくるはずです。



例えば身近な友人同士で考えれば、

どちらの意見が優先されるかなんかがそうでしょう。

きっちり同等に、というのは少数派かと。



それこそマウントの取り合いは日常茶飯事ですし、

それらは自然なことで、おかしな話ではありません。



人は場の中心に立って気持ち良くなりたい生き物ですから、

上下関係をきっちりさせようとするのは自然な話です。

まあ、無理にすると反感を買うでしょうが。




さて、↑のは「上を決める」感じですが、

これとは逆に『下を決める』事例も考えられます。



見方を変えれば「決めさせる」とも言えるでしょうが、

ともかく、これもまた上下を決める政治的な話になります。



その集まりの行動を決定した『責任を持ちたくない』場合、

もしくは単に『決めるのが面倒』な場合など、

こういう時は下が得ですからね。



これを決めるのも決めないのも、

やはり政治の感覚は拭えないでしょう。




こんな感じで『政治』というのは身近なものなんです。

人は本質的に、『政治』に無関心ではいられません。



「人と関わる」ことで『集団を形成する』し、

その恩恵を享受している限り、

あらゆる人は『政治』の影響下にあります。







政治


|| 人は集まって、集まったものは意思を持つ

これはいわば「人の集まりが起こす現象」のことです。

範囲が広すぎるんで、大体のことは政治に含まれます。




とりあえず、政治の「原理・事実」を確認しておきましょう。

政治は、この基本的な原理の元にある考え方になります。



その1つは、『人は関わることがある』ということ。

もう1つは、『人は集まって集団を作ることがある』ということ。

そして最後が『人は目的を共有することがある』ということ。



以上、この3つの事実が、

「政治」を形成する基本的な原理になります。






人は関わることがある


これはまあ、当たり前の話ですよね。

1人しかこの世に居なければあれですが、

まあ、自然に考えるとこれは事実と言えるでしょう。



ともかく、これは政治を形作る基礎の一つになります。

というのも、そもそもこの事実が無ければ、政治はありません。




人は「関わる」ことで、初めて「他者の存在」を認めます。

そして「他者の存在を認める」と、

今度は『付き合い方』を考える必要が生まれるわけです。




具体的には、例えば「仲良くなろう」だったり。

もしくは「関わらないようにしよう」だったり。

「殺してでも奪い取る」だったり。



まあ、こんな感じで「関わり」にはいろいろあるわけです。

そしてこの選択は、当然『人によっては異なる』んですね。




そう、こうして『人と人との関わり』から、

政治は形作られて行きます。






人は集まって集団を形成することがある


基本的に、人は『群れる生き物』です。

なぜなら「子孫を残す」時、必ず『男と女』がくっつき、

そしてそこに「子供」が生まれます。



生活を維持しようと思うのなら、

特に「離れる理由は無い」ですから、

結果として、人は集団を形成することになるわけです。




↑は原理的な話になりますが、

当然、他にも原理に近い理由はあります。



それは、「効率化」「安全」「安定」の観点から分かります。

というのも、人は群れて協力した方が色々捗ります。




効率化


「効率化」の話では、

例えば1人で生きていくには、

「水汲み」と「食料の調達」などを1人でする必要があります。



しかし2人いれば、どっちかで良くなったりします。

いわゆる「分担・分業」が可能になるわけです。

不公平なら、それこそ「日替わり」とかすればいいですし。




量は確かに増えるでしょうが、

例えば「大規模農業」なんかを見ればその意味が分かるかと。

他の事例もいくらでも考えられるでしょう。



具体的には、人は「水汲み1回」で『一定量』を運びます。

この『一定量』とは必ずしも「1人分」ではなく、

生活必需品ともなると、ほとんどの場合は複数人分になります。



つまり1人では「水汲み1回」と「食料確保1回」ですが、

2人だと「どちらか1回」となるわけです。

その分、調達する量は増えるわけですが。




このように、「回数は減るが量が増える」という面で、

それが「結果的に楽になる」のなら、

『互いに得をする』ことになるので、人は群れを作るわけです。




安全


これも当然ですが、基本的に人は『死にたくない』です。

これはものすごく当たり前の話ですよね。



ですからこちらもまた自然な話として、

人は『危険を避ける』わけです。




一番怖いのは今も昔も「見知らぬ他人」ですが、

他にも「肉食動物」なども恐ろしいです。

我が国であれば「熊」とかがそうですね。




そう、人はこのような「危険」から身を守らなければ、

『確実に生き残る』ことはできないわけです。



なので、誰もが「危険」に対して『警戒』を怠りません。

まあ、現代ではこの感覚は鈍くなってしまっていますが。




ともかく『警戒』は必要で、

時には「戦う」ことも視野に入れる必要があります。

人食い熊とか、殺しますよね?



となると必然、「数」は武器にも守りにもなります。

当然、多い方が基本的には有利です。

裏返せば、『集まった方が、安全性が上がる』とも言えます。



なにせ『警戒』の面で見るなら、

自分の代わりに警戒する人に「信用がある」のなら、

自分1人が常に警戒する必要は無くなります。



また『戦う』という場面でも、

当然、正面切ってなら1人より2人の方が有利です。

専門家に任せるのも1つの選択肢になります。




とまあこのように、「安全性」の面から見ても、

『生き残るため』には「集まる」方が有利なわけですね。




安定


これもまた当然の話ですが、

『人はリスクを負って生きている』と言えます。



例えば「明日も食べていけるか」というのは、

少なくとも確実に保証されているものではありません。



我が国ではあまり意識しないことですが、

「飲み水」なども安定して確保できるわけではありません。



その他にも多くの「リスク・危険・危機」があります。

例えば「怪我」「病気」「災害」などがそうですね。




この中には「回避できるもの」もありますが、

同様に「回避できないもの」もあります。



この中でも「回避できないもの」は厄介で、

1人で生きている場合、これが死に直結する可能性があります。



例えば「干ばつ」などの「災害」に見舞われれば、

乾いて死ぬ可能性は非常に高くなります。



他にも「骨折」などの怪我に見舞われれば、

食料を保存していない場合、飢えて死ぬ可能性も。




そう、こういったリスクが、

「集団」となることで軽減できたりするわけです。

いわゆる「リスク分散」というやつですね。



具体的には、例えば1人が「怪我・病気」に見舞われても、

他の誰かがいれば、死ぬ可能性は非常に低くなります。



「災害」の時であっても、

例えば「遠くの知り合いを頼る」ことでなんとかなったり、

現代であれば「国」が災害からの復興を援助してくれます。




このように、人は「集まる」ことで、

『生き残る可能性を上げる』ことができるわけです。

これが安定の意味になります。






人は目的を共有することがある


基礎的なものはやはり『生き残りたい』ですね。

この目的は基本的に変わらないかと。



現代ではこの心配をする必要性が薄れたので、

↑の目的を実感することは少ないでしょう。

しかし、根本的には変わっていません。



いまでこそ大量のセーフティネットが敷かれていますが、

「事故」というのは必ずあるわけで、

確率的にはかなり低いですが、常に死は身近に存在しています。




そして人は、『生き残りたい』んです。

その他のあらゆる願望は、この上に成立しています。



いま皆さんが抱いている願望も、

結局は「生きているのが当たり前」だから生ずるものです。

「楽がしたい」とか「理想の自分になりたい」とか。



このような願望は、あくまで余裕があるからこそ。

生きているのが当たり前だから抱けるものになります。






思想


集団というのは、基本的に思想の元に形成されます。

その思想の基礎は『生き残りたい』です。

その目的の上に『幸せになりたい』が来ます。



そう、人は「生き残りたい」と思うからこそ集まり、

その中で「幸せになる」ことを目指して行動します。



この2つ思想の元に、統一された動きを見せるわけです。

そして重要になるのが、この「手段」になります。




この理屈から分かる通り、

『人の集団』は「統一された思想」によって行動を決定し、

人はその「統一された思想」の影響を受けます。



具体的には、

例えば「普通」や「常識」と呼ばれたりするものは、

この「統一された思想」の中に含まれています。



「平和は素晴らしい」とか「人類愛」だとか、

「平等にすべき」とか「差別はいけないこと」だとかも、

この『統一された思想』の一つです。



それが『正しいか正しくないか』は問われません

これらはまるで真理であるかのように扱われます。




身近なものだと、

「親に感謝をすべき」だとか「お年寄りを敬うべき」だとか、

他にも我が国だと「働くことは立派なこと」とかがありますね。



どれもよく考えると変な話なんですけど、

疑う人はあまりいないように思います。



親だからといって必ずしも感謝したくなるわけではありませんし、

年長者が全て尊敬できるかと言われれば、そんなこと無いですし、

働くことは、宗教によってはそもそも罰扱いです。



それでも、↑は真理のように扱われますよね?

不思議なものですが、作られた思想とはそういうものなんです。




というわけで、これが形成される順番を確認しましょうか。

普遍的ではないものなので、その確認のために。



まず『集団の維持』を「目的」とします。

んで、次に『思想の統制という手段を選択する』わけです。



この次に、「思想の統制」が『教育』を形成します。

こうして『教育』が「思想を形成する」ことになるわけですね。




この「集団をまとめあげる・統制する」ことを目的として、

『作られた思想』を、「イデオロギー」と言います。




再度まとめると、

「集団の維持(目的)」→「思想の統制(手段の1つ)」

→「教育の方針が決定」→「思想が形成される」



この流れを経て、「思想」は形成されるわけです。



ただ、この順番は見た目の上では前後し得ます。

しかし基礎はこれです。

辿って行けば、前後してはいません。




『思想』の根源は、

「集団を統制するための1つの手段」です。



順番が前後しているように見えるのは、

『納得できない思想は淘汰されてきた』からになります。



ですから、今残っているのは『正しそうに感じられる思想』で、

人はこの思想の元に集団を維持しています。






代表者


「集団・集まり」は、いわば一種の生き物のようなものです。

↑のように「人は統制されることがある」ので、

ある「集まり」は、一つの目的のために動くことがあります。



しかしはて、この「集団の行動」ですが、

そもそも誰が『意思決定』を行っているのでしょうか?

勝手に決まるわけではないですよね?



自然に考えれば、その「集まりの中にいる人」が決めてます。

人の集まりですから、人の意思がなくては動きようもないです。



しかしはて、果たしてそれは「全員」なんでしょうか?

全員が望んで、集団の意思を決めてるんでしょうか?




身近な例で考えてみましょう。

そのために、例えば「2人で友達と出掛ける」場合とか。

この辺りで考えてみましょうか。



となると、出掛けるわけですから、どこかに行くわけです。

そこで「どこに行くのか」を決めるわけなんですが、

さて、これはどのようにして決まるのでしょう?



考えられるパターンとしては、

「片方が行きたい場所を言う」場合と、

「両方が行きたい場所を言う」場合、「両方言わない」場合が。



んで、いずれの場合についても言えることですが、

最終的には「行く場所を決める」わけです。

どこにも行かない、というのは無しにします。




というわけで見ていくと、

「片方だけ行きたい場所を言う」場合、

特に反対意見が無ければ、その意見が採用されます。



そして「両方が言う」場合であっても、

「どちらかの意見を採用」して、行く場所が決まります。

例外はありますが、省略。(意見が合わず解散とか)



「両方言わない」場合でも、

「行く場所を決める」のなら、

結局、↑の流れを経るわけです。



そう、これを見て分かる通り、

最終的には「片方の意見が採用される」ことになります。

当然、『合意』の元ではありますが。




というわけでなんとなく分かったと思いますが、

「集まり・集団」の『意思決定』というのは、

『合意』の元に、『代表者が決める』わけなんですね。



んで、この『代表者が持つ決定権』のことを、

俗に「権力」というわけです。




んで、『代表者』についてですが、

これには「選ばれる基準」というのが当然あります。



それは例えば「武力」「知恵」「高潔さ」「財産」など、

ともかく『代表者として相応しい』という「根拠」があるわけです。

この「根拠」が、いわゆる「権威」と言われるものになります。



身近なところだと、「お金をたくさん持ってる」とか、

「コミュニケーション能力が高い」とか「頭が良い」とか、

「体が大きい」とか「格闘技経験者」とかがそうですかね。







身近な政治


|| 人が日常で体感している政治

要は「ほとんどの人が体験する人間関係」の話です。



事実を確認しておくと、

人は基本的に「誰かの子供」として誕生します。



そこから「生き残る」ためには、

なんらかの「他者との関係」は必要不可欠です。



代表的な事例であれば「親」がそうですし、

他にも親が養ってくれない場合は「親戚」、

もしくは施設などの「縁の無かった人」など。



ともかく「生き残る」ためには、

ほとんどの人は誰かと「関係」を持っているわけです。




そう、『人間関係』はほとんどの人にとって身近です。

決して縁遠いものではありません。



ですので、そこには必ず「政治的な感覚」が存在します。

というわけで、それについてちょっと見ていきましょうか。






家庭


これは「代表的な人の集まり」と言えます。

広義に解釈すれば、これは国の一種と言えるでしょう。

というより、「国の最小単位」と捉えるのが適切でしょうか。




ここでは自分の他に、「親」「兄弟姉妹」「祖父母」など、

この辺りと『関係』が発生し得ます。

当然、例外もありますが。




そしてそのなかで、『家族』という「集まり」は、

何らかの基準の元に「秩序を維持」しています。




要は「躾け」の話ですね。

「子供の悪戯」は「親が責任を負う」ように、

「親」は『子供に決まりを教える』ことがあります。



一例ですが、「親」と「子」の間には、

このような『関係』があるわけです。




また『家族』の中にも、当然「代表者・リーダー」がいます。

今の時代では「お金を稼いでいる誰か」が強いですね。



それは時に「父親」であったり「母親」であったり、

要は『家族の中心にいる人物』がそれを担うことが多いです。



そんな「リーダー」は、時に家族に行動を強制できますし、

家族内での決め事を主張することもできます。



例としては、例えば「兄・姉」が「弟・妹」に命令する感じ。

他にも「父」「母」が子供に強制することもあります。



具体的には「結婚」とかがその一例ですね。

基本的に「家族同士が公認」することで円満にできますし。




このように、家庭内にも『立場・序列』が存在し、

であるからこそ、「政治」とはまったく無縁じゃないです。



人は「家族」という枠の中で、

きちんと政治を体感してるわけです。






個人的な関係


身近な例では、「友人」とかがそうですね。

友人に限らず、「縁があった人」とかもそうでしょう。



んで、流れで結論は分かると思いますが、

ここにもまた「政治」は存在しています。




「友人関係」でも同様にそうでしょう。

対等な関係というのは基本的に成立しないので、

基本、「行動の方針を決定する誰か」は存在します。



仲間内でも、やはり「リーダー」は存在するわけです。

いますよね、そのグループで一番慕われている人が。




こういうのは基本、「暴力」か「人徳」で決まります。

前提は、「頭が良い」ことでしょうか。



こういう人物は、多くの場合グループの中心になります。

そしてグループ全体の行動方針を決める役割を担うわけです。




分かるかと思いますが、これもまたやはり「政治」でしょう。

「人の集まり」「人間関係」「リーダー」が存在しますし、

なにより、かなり身近で実感しやすいかと思います。






学校


これはいわゆる「スクールカースト」のお話です。

もうばっちり政治の話になります。




関わる相手として考えられるのは、

「クラスメイト」「他クラスの友人」「担任の教師」などですね。



集団となるのは「クラス・組」とか。

人によっては「部活」「委員会」「生徒会」など。

この辺りになると上級生とか下級生とかとも関わります。




んで、より具体的な政治色のある事例だと、

例えば「クラス委員を決める」「体育祭の代表選手決める」とか、

こういう時に政治的な感覚が強くなります。



日常的な感覚で言えば、「グループ」とか。

「話しかけて良い人」や「話しかけてはいけない人」など、

言葉にはしていないでしょうが、確かに存在しましたよね?



似たような話で、例えばクラスの方針を決める際、

「発言していい人」と「発言してはいけない人」がいて、

「言って良いこと」と「言ってはいけないこと」も決まってます。



あれです。あの感覚が「政治」の感覚になります。

いわゆる『力の及ぶ範囲』に影響する話なので、

これはばっちり「権力」の感覚です。




話は変わりますが、

このように「学校」とは『政治』を学ぶ上で良い環境です。



というのも、「権威」の感覚がけっこう直接的なんです。

どういうことかというと、「実社会」では『お金』の側面が強く、

いわゆる「間接的な力(資金力)」が権威に繋がります。



しかし「学校」では、『コミュニケーションスキル』を筆頭に、

『頭の良さ・暴力・容姿』が「権威」に繋がります。

こう考えていくと、学校の環境は露骨なほどに政治的です。



なにより、これは実社会の本質とそれほど変わりません。

単に「実社会で能力をお金に変えられるか」という違いだけで、

「権威」の根本的な部分は学校と変わりません。



『頭の良さ』はいつの時代も「生き残る」ためには必要で、

『暴力』はあらゆる「危険」から身を守ってくれます。

そして『容姿』は「種を繋ぐ」上で有利に働くことは明らかです。




このように、学校とは「政治を学ぶ場」として非常に有用で、

寧ろ、学校ではこれ以外に学ぶ必要はないんじゃないか?

とか、そんなことを考えてしまいます。



まあ、「最低限の教養」はさすがに教えるべきなので、

この部分は外せませんが。




ともかく、学校の場合だとこんな感じ。

いやほんと、どこもかしこも政治的だと思いませんか?






職場


こちらもまた「政治」が関わってきます。

まあ、もう分かりますよね。

逃げ場なんて「人と関わる限り」ありません。




んで、職場で関わる相手として考えられるのは、

「同僚」「お客さん」「上司」「上司の上司」などです。



集団としては「会社」「プロジェクトチーム」など、

いわゆる『一つの価値を複数人で生み出す』時、

「指揮官」と「配下」の構造が生まれます。



はい、ばっちり政治です。

「誰がリーダーやるか」とか「誰が一番面倒なのをやるか」とか、

こういうのを必ず決めますよね?




他にも『会社内で有意に立ちたい』なら、

当然の話、「上司」には常日頃から「適切な対応」が必要です。



「仕事の成果を出す」こともそうですが、

なにより重要なのは「円滑なコミュニケーション」ですね。



下手なゴマすりというより、

単純に「上司に認められる」ことが必要になります。

上司だけではなく、同僚もそうですね。



そしてその「積み重ね」が「権威」に繋がり、

『誰もが認めざるを得ない』となれば、

会社内での地位が向上するわけです。




このように「職場」においても、必ず「政治」は存在します。

これは複数人で働いている人には非常に馴染み深い感覚かと。







大局的な政治


|| 人はこれの影響下にあるが、実感しにくい

いわゆる『大きな集団の政治』がこれになります。

歴史等があるので、多くの人はあまり実感できません。



大きく分けて2つ、

『国対国』の政治と、

『国民対国民』の政治がこれ。



まだ実感しやすいのは、当然『国民対国民』の政治です。

いわゆる「内ゲバ」とか呼ばれるやつなんかもこれ。

(ゲバはゲバルト(威力・暴力)の略)



『国対国』は、「平和である」場合に限りますが、

一般人にはまるで無縁のものになります。

といっても、決して無関係ではないんですが。



というわけで、この辺りを詳しく見ていきましょうか。






国対国


つまるところ『外交』のお話です。

「国家同士の関係」についてのあれこれになります。



基本的には「話し合い」になりますが、

必ず『背景』には「武力・経済力」などが存在します。

実情は「要求・恐喝」とそう大差ありません。



例えば我が国だとアメリカ様様には頭が上がらないでしょう。

要求されれば、その内容のほとんどを断れません。

まったく対等じゃないです。



代も変わっていますしいい加減解放してくれても良さそうですが、

まだまだアメリカは日本を食い物にし続けたいのでしょうね。

健全じゃないですが、外交とはこういうものです。




んで、これのスタートは、感覚的には「それ欲しい」という感じ。

ある国が別の国にあるなにかを「欲しがる」とき、

この外交は発生します。



「欲しがる」ものの具体例は、要は『資源』ですね。

「領土」を筆頭に「技術」「鉱物」「石油」「人」など、

欲しいものはいろいろとあるでしょう。



これの解決手段は、ちょっと前までは「戦争」が主流でした。

そりゃあまあ、「土地くれ」と来て「嫌だ」ってなって、

「いやよこせ」ってなったら戦うしかないですよ。




しかし現代には『核兵器』が存在しています。

おいそれと戦争をおっぱじめると、こいつが飛び交うわけです。

となると、戦争は自分たちの死滅に直結します。



はい、いわゆる「相互破壊確証」という核戦略があるため、

現代人は国家同士の戦争を行えなくなりました。



より厳密には、「戦争すると誰も得しない」から、

なら戦争はできないよね、ってなってる感じ。



これで「国対国」の大きな戦争は起き辛くなっていて、

現代の平和が成立している、とされています。



とされている、っていうのは、

これはあくまで仮説に過ぎない、ということを強調するためです。



というのも「相互破壊確証」は、

例えば「滅んでも構わないとする為政者」が誕生すれば、

その時点で崩れ去ります。



他にも「どうせ核兵器は撃たれない」という仮説の元、

「撃たれないのなら好きに攻め込んでも大丈夫」と、

そう思って戦争する国家が誕生しないとも限りません。




我が国は戦争をする理由がほとんどありませんから、

そういった戦争の引き金になる可能性はほぼ無いでしょう。



しかし、それはあくまで我が国に限った話。

数多存在する「他国」はそうとは限りません。



「戦争をしてでも要求を通したい」と思っている国は、

決して珍しいわけではありませんから。




とまあこのように、平和というのは割と幻想です。

現代の我が国がおかしいだけで、基本的に国家は争います。



事実、『武力を背景にする』形で、

現代では『経済力』で争っています。



このように、国とは、人とは、争いを止めない存在です。

ルールが変わればそのルールで。

無視できるのなら、ルールを無視してふぁいてぃん。



このように、『外交』は常に行われていて、

国の利益を巡ってごっちゃごちゃです。




実感しにくいですが、

我々の「安全保障」もこの外交の内です。



というのも、↑で語ったように、

「我が国が武力を行使するつもりが無い」場合でも、

「よその国は武力を行使することがある」わけです。



この時に国民が武力に晒されないためには、

「個人」ではどうすることもできません。

対処できるのは「国」だけです。




とまあこのように、

『実感しにくい』話ではありますが、

決して『無関係ではない』話になります。






国民対国民


大きく分けて2つ、

『国全体の代表者』の話と、

『国の一部の代表者』の話があります。



多くの人が実感しやすいのは、『国の一部の代表者』の話です。

基本的に『国全体の代表者』は、国民とあまり関係がありません。



いや、国民が決めるんじゃ? と思うかもしれませんが、

決めるのは『大衆』です。

これは『国民』とは別物になります。



決めるのは『国民全体の傾向』で、

「国民全体の傾向を決める」のは、

『教育』と『マスメディア』です。



無関係は言い過ぎですが、

これは「個人」の感覚とは程遠いものになります。



なぜなら現代においてこの『大衆の思想』を決めるのは、

「個人」ではなく『国』と『マスメディア』だからです。



『国民』ではなく、

あくまで「国」と「報道機関」が決めています。

厳密には「気付かれずに決めさせている」と言うべきでしょうか。




例えば「現代の教育」と「マスメディア」を中心に情報を得ると、

「自分の国が好きと言うことは、悪いこと」のように思えます。

これは現代では実感しやすい事実ですよね?



とはいっても、単なる事実として、

自分の生まれた国を好きと言えないのは日本くらいです。



そもそも自然な話として、

よほど嫌な思い出でもない限り、自分の故郷を嫌いだと、

「好きと思うべきじゃない」とは思えないでしょう。



つまり、これは自然に形成される思想とは言えません。

自然に形成される思想は『好きでもいい』です。

「好きと思ってはいけない」は、明らかに変でしょう。



さて、このような「自国が好きではいけない」という思想ですが、

はて、これはあなたが決めた思想・感情ですか?



違いますよね?

気付いたら、いつのまにか、根付いていたものじゃありませんか?




これが「思想を作る」ということの身近な例です。

これに限らず、人は多くの「作られた思想」の影響下にいます。




この原理的な話は『印象』について理解していれば分かります。

また『大衆』と『国民』の違いについても、

『数値感覚』を理解していれば分かるかと。

(詳細は情報メディアの記事に)




・代表者を決める


これは、要は『選挙』の話になります。

原理的には『多数決』のことですね。



当然ですが、『代表者』を選ぶ時、

その『選び方』は適切でなくてはなりません。



適切でない場合、

その「代表者の決定」に納得しない人も出てくるわけで、

そうなると「代表者の役割」が破綻してしまいます。




ここで出てきた考え方が、いわゆる『多数決』ですね。



『集団の過半数以上が認める』なら、という理由を用意して、

全員に納得せざるを得ないと思わせる方法です。



この方法を取ると、いわゆる「社会的証明」が形成され、

認めない人もどちらでもない人も、つい流されて、

『認めよう』となるわけです。




当然ですが、これは『期待』を背負うことになります。

その分、『代表者』には「適切な成果」を求められるわけです。



具体的には「効率的なシステムを組んで現状を改善する」こととか、

他にも「お金を儲ける」こととかも代表者の役割になります。



例としては、会社の重役なんかが分かりやすいですよね。

あまり実感がないかもしれませんが、国政も似たようなものです。



国政もまた『国民のために価値を生む』こと、

言い換えるのなら「お金を儲ける」ことが仕事です。

「法律を作る」というのもこれの一環になります。



まあ「法律を作る」のも「お金を儲ける」のも、

現在、国会の中にできる人はすごい少ないんですけどね。




ともかく「多くのものを動かせる」という権利、

いわゆる『権力』を持っているので、

『代表者』は適切に決められなければなりません。



これがいわゆる「選挙制度」なわけですが、

これもまた実感としては不透明な感が拭えません。



なぜなら現在の選挙制度では、

明らかに『無能な人間』でも当選できるようになっています。



そう、現在のわが国での「代表者の選び方」では、

『無能な人間が大きな権力を持つ』ことがあるわけです。

これは自然に考えて大問題でしょう。




国会中継を見れば分かりますが、

まともな国会議員なんてほとんどいません。

それが「現在の選挙で選ばれた代表者」の実体なわけです。




改革が必須になるのは「大衆の思想を決めるもの」ですから、

つまりは『教育』と『マスメディア』を改善するのがベスト。



これらが公平に、かつ生産的にならない限り、

『無能な人間』ばかりが「代表者」になり続けるでしょう。




選挙制度にメスを入れるのは本質的ではありませんが、

一応これも「公平性」の明確化が必要なように感じます。

単純な話、不正が考えられますからね。



例えばの話ですが、より公正を喫するのなら、

「ID」などで『誰がどこに投票したか確認できる』よう、

『入った票に不正が一切ない証明』を設ける必要があるでしょう。



「ID」は国籍を持つ人にQRコードなどを配る形をとって、

投票結果をWeb上でも公開すれば、十二分に実現可能です。



技術的には不可能では無いはずなんですが、

不思議なことにしないんですよね。



改革をやる有能な人間が存在しないか、

もしくはこれをやると困る人達がいるのか、

いずれにせよ、選挙という方法それ自体に改革が必要でしょう。




とまあ、『代表者』についてはこんな感じです。

「少ない人数の集団」であれば健全になりやすいですが、

「大量の人数の集団」となるとこんな感じに。



『大多数の原理』自体は正当なものですが、

「大衆を操作する」ことは現代では可能ですから、

そこをどうにかしないと正常さは保てないかと。



ざっと考えると、

大衆扇動という現象を「教育」などでどうにかするのが、

恐らくは改善の焦点になると思われます。




・個人対個人


この単位になると、いわゆる『身近な政治』の話になります。

これの具体的な話は↑でしたものですね。




要は「大きな集団の中にある集団」の話です。

基本的に、こんな感じで人は「どこかに属している」わけで、

『人と関わる』限り、この縛りは必ず存在します。



はい、「政治とは無縁でいたい」っていう、

この手の願望は基本的に叶わないんです。



「政治に無関心」ということは、

自身の『大局的な環境』を見ない、ということですし。




なにより、見なくとも権利と義務を受け取っています。

家庭で言えば、親の愛情やお金などを得ていて、

代わりに従順である必要がありますよね。



「国」であれば、防衛・生活インフラなどの恩恵を受けとっていて、

だからこそ、国民はその恩恵の対価(税金など)を払っています。



これはたとえ誰が望んでいなかったとしてもそうです。

頼んでもいないのに生まれてきてしまったように、

我々は国という親の庇護下で生かされています。




また「他人との関わり」を完全に断つことはほぼ不可能です。

親を筆頭に、人は人との関わり無くして、

自身の生存率を高めることはできません。



生きるために必要な水や食料の調達も、

外敵から身を守るための安全の確保も、

一人で行っている人はこの世界にほとんどいません。






個人的な主張になりますが、

私はこういったことについて、

きちんと理解していた方が良いと思うタイプの人です。



というのも、政治に無関心であったばかりに、

いろいろと失ってきたことは誰しも経験があると思うんです。



身近な例では、学校でもうちょっとうまく立ち回れれば、

それこそモテただろうとか、楽しかっただろうとか。



同じように「国」で考えるなら、

例えば政治に無関心であったばかりに、

『我々を守る家』を失ってしまうことも考えられます。



それこそ『実感できない・気付かない内』に、

あらゆる生活基盤を失うことも起き得るわけです。



これは縁遠いようでいて、割とそうでもありません。

ただ、知らなければ気付かないというだけの話です。




なにより、失ってからあーだこーだと言うくらいなら、

最初から認識していた方が良いと思うんですよ。

その手の後悔は、皆さんも身に覚えがあるのではないでしょうか。



失うのなら、なぜ失われるのかを理解して、

そして次は失わないために学ぶ必要があると、

それが成長だと、まあ、そんな感じに思うわけです。




他にも、それこそ世の「理不尽」とやらも、

考えてみれば『無関心・無知』であるからこそと、

そう考えてしまいます。




そう思うと、やはり知っているというのは重要で、

こういう知識こそ、学校で教えるべきと思ってしまいますね。




以上、政治についての感覚はこんな感じ。



というわけですので、

是非、皆さんも身近な政治を意識してみましょう。

そうすれば、いろいろと理不尽の理由が見えてくるかと。