印象のモデル

 

|| 一部から得た、全体

この記事では『印象』を定義していきます。

その流れから、最後にまとめて形式に落とし込む感じ。

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モデリングの基本

 

前提「一階述語論理とか、要は数学」

必須情報「抽象情報と具体情報は必ず使う」

 

 

使う材料「有限集合とクラス」

『全』の解釈「人に観測されるもの限定」

   後者規則「入力されていく感じ」

 

 

 

材料のラベル「クラスの中身の名前」

情報「あらゆるものは情報で構成されてるとする」

 

 

 


ここから本題

 

大枠「クラス(類)・出発点」

   印象「限られた情報から創られた全体像」

   帰納的な推論「規則性を持つものを予測する」

 

最小単位「要素になるもの」

   印象の源「限られた情報と帰納的推論」

      第一印象「少ない情報から得られた印象」

 

 

印象の補正「加えられた情報で補正」

   肯定的補正「第一印象を補強する補正」

   懐疑的補正「第一印象を疑いながら補正」

 

 

 

 

 


 

この記事のメイントピックは『印象』です。

これ、それなりに耳にする単語じゃありませんか?

 

 

 

聞く機会があるとすれば、

例えば「~で印象的なものだと~」みたいな言い回しとか、

他にも「印象操作」なんて言葉で聞くことがあるかと。

 

 

 

もうちょっと具体的な話をするなら、

例えば何か「ある事象・人・組織」なんかの『対象』があって、

それに対して「悪い」とか「良い」とか、そういう感じ。

 

 

 

似たような言葉としては「イメージ」とか、

他にも「自分の持ってる感覚」とか、「直感的には」とか。

 

 

こういう「人間の大雑把な感覚」を、

人は、ある『対象』についての「印象」と呼んでいるわけです。

 

 

 

結論としては、「印象」は「帰納的な推論」によって得られます。

といってもこれだけじゃよく分かりませんよね。

 

 

とりあえず「印象」について簡単に説明すると、

これは「合ってるかどうか分からん」上に、

更には「主観的」なものになります。

 

 

 

ベースは『思考』における「創造」が元になっていますが、

この操作は基本的には「演繹」ではありません。

 

 

 

とまあ、ほんとこう言われてもよく分からんと思うので、

とりあえず具体例を考えてみましょうか。

 

 

というわけで、例えば「ある人物」を考えましょう。

この「人物」の「印象」をとりあえず作ってみます。

 

 

そのために、例えば「ボランティアによく参加する」とか、

他にも「いろんな人に慕われている」とか、

そういう情報を持っているとしましょう。

 

 

すると、なんとなく「良い人」という「印象」が得られますよね?

捻くれた人なら「胡散臭い」という「印象」を持つかもしれません。

ともかく、そういう「印象」が得られるわけです。

 

 

 

んで、なんとなく分かると思いますが、

この「印象の形成」には「一定の手続き」が存在しています。

↑の感じを見ると、なんか分かりませんか?

 

 

 

 

 

この記事では、この「一定の手続き」について見ていきます。

興味があれば、是非とも読み進めてやってください。

 

 

 

 

 


 

|| 限られた情報で全体を捉えるには

「一部から全体を得る」時、その『全体』が「印象」になります。

より厳密には『対象の全体像を帰納的に得たもの』が「印象」です。

 

 

 

ここで重要な点は「帰納的推論」によって得ているという点。

つまり『必ず正しくなる推論(演繹)ではない』点に注意。

 

 

 

実際の話、基本的に「実際の対象」とは『ズレ』が出ます。

「近づく」ことはあっても『一致』することはほぼありません。

一致することがあっても、その『確認が不可能』です。

 

 

もっと厳密に言うなら、そもそもの話として、

「違うもの同士」が『一致』することはありません。

当然の話ですよね?

 

 

2つのりんごの場合でも、2人の人間の場合でも、

比較すれば『ほぼ確実に差異が見つかる』ので。

 

 

 

つまり違うもの同士を比較するとき、

「似る」「近づく」ことはあり得ますが、

『同じ』にはならないんです。

 

 

 

つまり話を戻すと、

『印象』は限られた情報だけで形成されるので、

基本的に「実際・実体」とは『一致しません』。

 

 

ただし『実際・実体』に「限りなく近い」ということはあり得ます。

ですから「印象」で判断することは、的外れなことではありません。

確実か、と言われれば微妙ですが。

 

 

ともかく、『限られた情報』から「判断を迫られる」人にとっては、

この『印象の形成』は非常に合理的な推論形式と言えます。

 

 

 

これの具体的な話をするなら、

例えばよく使われるのは「良い・悪い」などですね。

 

 

いわゆる二元論でその「対象の全体像」を決める感じで、

これがそのまま印象になります。

 

 

それでいて、例えば「印象に残ってるもの」とか、

こういう言い回しがありますが、

これが↑で言うところの『限られた情報』です。

 

 

 

ともかく、印象はこのように『全体像が欲しい』時、

印象を形成することで、「思考の資源・リソース」を節約して、

「単純」に判断できるようにしています。

 

 

 

 

 

さて、とはいえこのままじゃ話が抽象的過ぎると思うんで、

「帰納的推論」の話をしておこうと思います。

知ってる人はスルーで良いです。

 

 

 

 

 

帰納的推論

 

『少ない情報』から「特徴・性質」を抜き出す推論の形式。

ほとんどの場合、『仮説の形成』で使われる推論。

 

 

当然、「正しい場合」もあれば「間違ってる場合」もあります。

 

 

つまりこれは「正しいことを保証しない」推論のやり方。

しかし同時に、「正しいかもしれない」推論でもあります。

 

 

 

やり方は単純で、それこそ誰でもできます。

できるというより、「いつもやってる」といった方が良いかも。

 

 

 

具体例としては、例えば「失敗の事例」を見た場合、

偶々、よく知らない人が2,3回なにかに失敗したとしましょう。

すると、その人に対して「よく失敗する」と『推定』できます。

 

 

といっても「偶々」である場合が考えられるので、

この時点では、まだ『仮説』の段階に過ぎません。

 

 

しかし「現状では」そうと「思うしかない」ので、

「その時点では」その人はよく失敗するとしておくわけです。

 

 

 

こういう推論のやり方を、「帰納的な推論」と言います。

見た通り、「限られた情報」から「特徴」を抜き出してる感じ。

 

 

 

念のために他の事例を考えるなら、

例えば「過激な発言ばかりが目立つ人」に対して、

「怖い」とか「嫌だ」とか、そういう感覚を持つ感じとか。

 

 

人は『限られた情報』での判断に迫られるので、

1つか2つ、「過激な発言」ばかりが目立つと、

その発言者に対する『印象』を「帰納的に」固めてしまいます。

 

 

↑のような例だと、「怖い人」とか「嫌な人」とか、

そういう風に単純化されるわけです。

 

 

『実際・実体』がそうであるかどうかは、別にして。

 

 

 

こういう例を考える場合、「人物像の印象」というのは、

必ずしも『現実の人物像』と一致するわけではありませんよね?

 

 

↑とは別の例として「良い人」という『印象』を抱いても、

これもまた『実際の人物像』と必ず一致するわけではないですし。

 

 

 

 

 

というわけで、これについて詳しく見ていきましょうか。

いわゆる『実際・実体』と『印象』の違いについて。

 

 

 

 

 

実際と印象

 

この「印象の形成」方法を見て分かる通り、

「印象」は、ほぼ確実に『実際』とは異なることになります。

 

 

その理由は、『印象』の形成が、

「対象」の「真偽不明」の『限られた情報』から、

「正しさを保証しない」『帰納的推論』で成されるから。

 

 

感覚的には、なにか「もの」を、

『合ってるかどうか分からん材料』を使って、

『合ってるか分からん方法』で作ってる感じ。

 

 

 

こう考えると当然のように、

『実際・実体』とは離れてしまいます。

 

 

 

んじゃあ不合理なの? ダメなの? ってなると思いますが、

誤解の無いように言っておくと、

これはこれで「使える推論」ではあるんです。

 

 

ただし「使えてる人」と「使えてない人」がいて、

残念なことに、大半の人は使えていません。

この理由の説明はとりあえず後回し。

 

 

 

ともかく、これの何が「使える」のかというと、

結論から行くと、これを「正しく運用する」場合、

『実際に近くなる』という「可能性は高くなる」んです。

 

 

しかし、忘れてはいけないこととして、

『実際と同一』である「可能性はほぼ無い」です。

基本、印象と実体は異なります。

 

 

 

まとめると、「帰納的な推論」で得られる『印象』は、

「正しく運用」すれば、『実際と近くなる』けれど、

『実際と一致する』ことはほぼありえません。

 

 

 

そしてこの有用性についてですが、一言でまとめるなら、

『実際に近くなる』という点で非常に有用なんです。

 

 

 

その理由をまとめるなら、

『印象』というのは、「きちんと作る」場合に限り、

『実際』の全体像に「近づいていく」ことになるので。

 

 

 

で、どうやればそうなるかというと、

簡単に説明するなら、要は『統計』で補正できるからです。

もっと言うなら、「特徴」が『抽象化』される感じ。

 

 

この説明ではまだ分かり難いと思うのでもっと詳しく言うと、

感覚的には「精度が上がる」というような話ですね。

 

 

 

というのも「帰納的推論」は、

『特徴を抜き出す』ことで『仮説を形成』しますから、

この『仮説を検証』すれば、「実体」との差は埋まっていくわけです。

 

 

 

感覚的な実例を考えるなら、

例えば「よく知らない」ものについて「いろいろ調べる」と、

その『印象』は『実体』に近づいていきますよね?

 

 

要は「なんとなく」から「確信」に変わる感じ。

この感じが「精度」の話に繋がります。

 

 

 

例えば「数学」で考えるなら、

ほとんどの人が持っている『印象』は、

「難しい」だとか「したくない」だとか「ややこしい」だとか。

 

 

もっと端的に言うなら、「関わりたくないもの」な感じ。

こういう『印象』を持つ人はそれなりにいることでしょう。

 

 

しかし、その「印象」は『実体』とは異なります。

 

 

詳しく話すと長くなりますが、

要するに、『多くの人が知る数学』というのは、

『学校で習う数学』だけなんです。

 

 

そしてこの『学校で習う数学』というのは、

「数学のごく一部」を「ややこしく」教えています。

 

 

つまるところ、多くの人が持つ「数学への印象」を、

『学校で習う数学』としての「印象」と捉えるのであれば、

「実体に近い」という点で適切になります。

 

 

 

この感覚から分かる通り、

『情報は限定されてる』んです。

 

 

ですから「広い全体」から遠くなるのは当然で、

「近い」のは、「限定された全体の一部」に対してのみ。

 

 

なので「より広い範囲の情報」を得なければ、

「数学の全体像」には近づいていかないわけです。

 

 

 

逆に言えば、「広く・たくさんの情報」が得られれば、

「数学の実体」に『近づいていく』ことになります。

 

 

 

この「実体に近い」のが、

例えば「正しさを決めていく学問」のような捉え方です。

 

 

 

このように、『印象』を正しく運用すれば、

『実際・実体』をより正確に捉えることができるようになります。

この点で、この手法は明らかに有用なわけです。

 

 

 

 

 


最小単位

 

|| ある対象の、印象を形成する情報

簡単には、「何かについて、知ってる情報」のこと。

より厳密には、ある「対象」に「関連する情報」のことを指します。

 

 

 

これは、要は『限られた情報』の話です。

 

 

人はこれだけで判断を迫られることになるので、

「判断が必要」な時、大まかな全体像を捉えるには、

『印象を形成しなければならない』わけで。

 

 

この時、必然的にこの『限られた情報』を参照しなければなりません。

 

 

 

ですからこの「限られた情報」を、

『印象』を形成する「最小単位」として考えることができるわけです。

これで特に問題は出ないかと。(出たら出た時)

 

 

 

 

 

とはいえこの説明だけじゃ抽象的過ぎるので、

さっそく感覚的な話に移っていきましょう。

これだけだと実感しにくいでしょうし。

 

 

というわけで、実際に「印象」を形成してみます。

その修正の過程もまた見ていくことにしましょうか。

 

 

 

というわけで、まず「なにか」があります。

なんでもいいです。

 

 

ただ、このままだとちょっと抽象的なので、

とりあえず、例えば「ある人物」とかでやってみましょうか。

この「ある人」の『印象』を、これから簡単に形成していきます。

 

 

では第1情報として、

「この人は人を殺したことがある」としてみます。

さて、たったこれだけですが、『印象』は出来上がりますよね?

 

 

例えば「悪人」「犯罪者」というような、

いわゆる「負の印象」が形成されませんか?

 

 

 

さて、とはいっても、この『印象』は正しいんでしょうか?

ほんとうに、この「ある人」は「悪」なんでしょうか?

 

 

 

というわけで、ここで『印象を否定する』ような、

ある2つめの情報を追加してみましょう。

 

 

ここもなんでも良いですが、

例えば「外科医」とかでやってみましょうか。

で、この「外科医」が「難しい手術に失敗した」とします。

 

 

いわゆる「結果」として「殺してしまった」という情報です。

こう来ると、あら不思議、「負の印象」は薄れませんか?

 

 

 

さてさて、こう来ると「悪くはないかも」となると思います。

例えば「しょうがない」とか「事故だし」とか、

ともかく「悪い印象」は薄れます。

 

 

 

でも、これもまた変更できちゃうんです。

というのも、例えば第3情報で「わざと失敗した」ときたら、

この「外科医」に対しての『印象』は再び悪くなります。

 

 

 

 

 

はい、こういう風に『印象』というものは、

『限られた情報』で形成されるもので、

1つの情報で変わる程度には、ひどく曖昧なものなんです。

 

 

例えば↑もまた否定出来て、

もういっそ、「全部作り話の嘘」としたら、

話題にあった「ある人物」の『印象』はリセットされます。

 

 

このように、印象とは『限られた情報』から形成され、

「たった1つの情報」で変わり得るものなんですね。

 

 

 

 

 

とまあこんな感じなので、

『印象』の『最小単位』を、

『限られた情報』として定義することにします。

 

 

これで特に違和感は無いかと。

 

 

 

 

 

第一印象

 

|| 一番最初に形成される印象

『限られた情報』で『最初』に形成された印象のこと。

厳密には「共通部分での関連を行う情報」のこと。

 

 

要は「最初の印象」のことで、

これは「安易」に作られます。

なので、基本的に『実際』とはほぼ確実に離れてます。

 

 

ただ、「偶然」近くなる場合はあります。

なので、「必ず実際・実体に近くない」とはなりません。

この点に注意ですが、体感 99% くらいは遠いです。

 

 

 

で、これが『印象』を形成する上での最大の曲者で、

実際、多くの人の判断を狂わせる要因になっています。

 

 

 

 

 

第一印象と感情

 

というのも、これはフィルターとして機能してしまうんです。

具体的には、「印象と実際を同一視してしまう」ことで、

『感情に直結する情報』を引き出してしまいます。

 

 

 

結論から行くと、

この「同一視」が起きる原因は「記憶」の性質に由来します。

というのも、『感情と関連してしまう』場合に起き易いんです。

 

 

 

要は「情報」が与えられたとき、

この「情報」は「記憶」に『関連』させられます。

 

 

そしてその「記憶」には、

『感情を想起させる情報』もまた含まれています。

 

 

このため、『印象』という情報が感情を呼び起こし、

『実際を観測する場合』でもまた、これは起きてしまいます。

大雑把には、これが理由になる感じですね。

 

 

 

もう少し具体的に言うなら、ある「情報」に対して、

「恐怖・拒絶感・ー」や「好感・親近感・+」などが、

『印象』からの「具体化」によって『関連』してしまうという感じ。

 

 

こうなると、ある「情報」が与えられたとき、

その『感情も一緒に思い出してしまう』わけです。

 

 

この結果、『印象』と『実際』に対して、

『結果的』に「同じ感情を抱く」ようになります。

 

 

 

まとめると、「印象」と「実際」に対して、

『結果的に同じ感情を持ってしまう』から、

この点で「同一視」が起きてしまう、という話です。

 

 

そしてこの『感情』こそが、

「判断」に影響を与える「フィルター」になるわけですね。

 

 

 

感覚的に言うなら、

例えば嫌悪感があれば「見たくない・知りたくない」となるし、

好感があれば「見たい・知りたい」となる感じ。

 

 

 

 

 

第一印象と架空の存在

 

「印象」は『実際とは異なる』わけですが、

人は「感情」によって「同一視」してしまうことがあります。

 

 

そう、この場合『印象』は「実際と同一視される」んです。

となると分かると思いますが、『印象=実際』となります。

 

 

こうなると、『実際とは異なる印象』が、

「実際と同じ」になってしまうので、

「実際とは別の実際とされるもの」が形作られるわけです。

 

 

この『実際とは異なる実際とされるもの』を、

「架空の存在」と表現しています。

 

 

 

はい、人はこのようにして「架空の実体」を創り上げます。

そしてこれが、『実際と同一視されてしまう』わけです。

 

 

 

分かると思いますが、こうなるとおかしなことになります。

要は「実際とは異なる」わけですから、

「間違っている可能性が高い判断材料」になってしまうわけです。

 

 

 

当然の話として、「間違った前提」の元に判断を下すと、

「おかしな結論」に至ってしまうことは多々あります。

 

 

より具体的には、

例えば「現実とはまるで異なる」ような結論であったり、

「極端に偏った」結論であったりが導かれます。

 

 

 

これの問題点は明白で、

要は「同一視してしまっている」からこうなるんです。

 

 

ですから、この問題を解決するには、

この「感情による同一視」を除去する必要があります。

 

 

 

しかし「人の判断は感情に影響を受ける」ので、

理屈では分かっていても、

なんだかんだとできなかったりするものです。

 

 

というわけでこれを解消するため、

これについてもうちょっと深堀していきます。

 

 

 

 

 

第一印象と判断

 

人の『判断』は「感情から」影響を受けてしまいます。

要は「フィルター」のようなものとして機能するわけですね。

 

 

例えば肯定的なら「肯定的に」実体のない肯定をしますし、

批判的なら「批判的に」実体のない批判をします。

 

 

 

これは実例で見てみるとわかりやすいでしょう。

例えば「親近感・好感」を抱いているものを考えてみてください。

なんでも良いですが、例えば「好きな人」とか。

 

 

んで、例えば「その人の悪口」を言われたとしましょう。

すると「否定したい」という感覚になりませんか?

 

 

逆に「その人を褒められた」場合であれば、

「同調したい」という感覚になるはずです。

 

 

 

もちろん、必ずしもこうなるとは限りませんが、

多くの人は、多くの場合、このようになると思われます。

 

 

まあ、自然に考えてみても、

好きなものを貶されれば嫌な気持ちになりますし、

逆に、嫌いなものを貶されればそれには共感しますよね?

 

 

 

このように、人は『感情に結びつく』と、

与えられた情報に対する「判断」が、どうしても偏ります。

 

 

「好きなもの」は「否定されたくない」となりますし、

「嫌いなもの」は「否定されても構わない」となるわけです。

 

 

されていることは同じなのに、

『実体ではない印象』の「良い・悪い」でも、

『拒絶』と『共感』に分かれちゃうんですね。

 

 

 

これが「感情による判断への影響」の感覚的な話になります。

特におかしな点はないでしょう。

 

 

 

 

 

ここで『架空の実体』の話を考えてみます。

すると、「実際」に対して「偏った見方」をしてしまう、

この理由に説明がつくわけですね。

 

 

 

順番を整理すると、

まず「対象」に対する『印象』が形成されます。

この『印象』は「感情を想起する情報」を持つ可能性があります。

 

 

そしてこの『印象』は「対象に対するもの」なので、

もちろん、『実体・実際』の「対象に関連する情報」です。

ただし「近い」場合も「遠い」場合も考えられます。

 

 

 

というわけで、ここから限定して考えてみます。

具体的には『印象』が「感情を想起する情報を持つ」とします。

 

 

すると必然、「対象」に対して、

「印象と同じ感情」を抱く可能性が高くなります。

 

 

で、これなんですが、順番を考えて見てみると、

まず「対象の『印象』に対する感情」が先に来てることが分かります。

 

 

そしてその次に、

「対象の『実体・実際』」に、これが関連させられてるわけです。

 

 

 

まとめると、「対象」の『印象』と『実体・実際』で、

「感情を想起する情報」が『共通している』から、

「同一の感情を抱き得る」ことになっているわけですね。

 

 

で、ここで「同一視」が起こってるんです。

 

 

 

そしてこのように「同じ感情を抱く」ということは、

「同じフィルターで見てしまう」という可能性が高くなる、

ということでもあります。

 

 

こうなると、『実体・実際』に対して、

「架空の実体」と『同じ感情』を持ち、

結果として、「同じフィルター」がかかることになるわけです。

 

 

この結果、『架空の実体』が「肥大」していって、

これもまたその結果として、『情報は偏る』わけですね。

 

 

 

 

 

このように、『感情の影響を受ける』と、

『印象』は判断を狂わせる要因になっちゃうんです。

 

 

 

とまあこんな感じなので、

『印象』と『実際・実体』は分けて考えるようにしましょう。

たとえ、感情的にはそうは思えなくても。

 

 

 

 

 


印象の補正

 

|| 変わらない印象と変わっていく印象

これは主に「変わっていく印象」についての話になります。

要は「新しい情報」で「印象は変わる」って話の具体的なこと。

 

 

 

印象と実際はほぼ全ての場合で異なるわけですが、

当然の話として、これを放置するのは危険です。

 

 

ですから、「正常な判断」を行いたいのなら、

きちんと『印象』を『実体』の方へ、

「近づけていく」必要があります。

 

 

 

ともあれ、まずは基本的な事実を確認しておきましょう。

 

 

前提として、

人は『印象』で「全体像」を捉えざるを得ません。

なぜなら、人は『限られた情報』しか得られないから。

 

 

仮に『印象の形成』以外の方法があるとしても、

少なくとも現状では、『全体像を捉えたい』なら、

『印象を形成せざるを得ない』んです。

 

 

 

ですから、とりあえず『印象の形成』は前提とします。

これ以外の方法というのは、ここでは考えません。

 

 

 

はい、ですから『全体像の把握』のためには、

「印象を実体に近づけていく」ことが重要だとしておきます。

 

 

 

ちなみに『印象を極限まで実際に近づけたもの』が、

いわゆる『科学』です。(存在公理の集まりとも)

これはしっかり押さえておきましょう。

 

 

 

話を戻すと、そもそも『印象』とは、

『限られた情報』から「帰納的に推定」された、

正しそう? という感じの『仮説』のことです。

 

 

 

これを『実際・実体に近づける』ということが、

そもそも何を意味するのかというと、

結論から行くと↓です。

 

 

『仮説が正しそうな上に否定できない』なら、

それは実際と「ほぼ一致」してるとして、

この「ほぼ一致している」という感覚を、「近い」とする。

 

 

この上で「実際と近い印象」を形成できれば、

それは『ほとんど実際と同じ』として特に問題が無くなる。

 

 

ただし、『印象と実際は異なる』ことは変わらない。

これはあくまで『実際と同一視しても問題が特に無い』というだけ。

 

 

 

これが『印象の補正』の概要です。

要は「否定できないくらいに精度の高い仮説」なら、

それを「正しいとする」やり方。

 

 

考え方そのものは諸に『科学』ですね。

 

 

 

というわけで、大まかな方針は固まりました。

この方針から、もう少し具体的な話をしていこうと思います。

 

 

 

 

 

単に『精度の高い仮説』といっても、

まあ、その仮説の立て方ってよく分かりませんよね。

 

 

簡単に思いつくのは『多くの情報を得る』くらいで、

他には『偏りのないように情報を得る』くらいでしょうか。

 

 

大まかに考えると、恐らくこれくらいでしょう。

他のは細かな話になっていくと思われます。

 

 

 

↑の感じから分かる通り、

これは、いわゆる『統計』的な考え方です。

 

 

つまり端的に言うなら、

『統計的な処理』を使うことで、

「精度の高い仮説」が創れそうって話。

 

 

この感じで納得できるでしょうか?

 

 

 

このままだと分かり難いと思うんで、

もうちょっと具体的に考えてみましょう。

 

 

一応、↑で「印象が変わる過程」は見ました。

なので、次は「実際に近づく過程」を見てみましょう。

 

 

まず前提として、

印象が「実際と一致する」ことはほぼ無いです。

 

 

大事なのは「実態に近づくこと」であり、

「完全に同じにする」ことではありません。

 

 

 

これらを念頭に具体例を考えていくと、

例えば「顔が怖い人」でやってみるなら、

 

 

「怖い」っていうのは主観的なものですが、

多分こういうのが分かりやすいんでこれで。

 

 

とりあえず、そう感じるってことを前提にしますと、

 

 

ともかく自然な話として、

人が最初に相手に与える情報は「見た目」がほとんどです。

つまり「第一印象」は、ほとんどの場合「見た目」から。

 

 

こんな感じですので、この例で話を進めていきます。

他のでも良いですが、それは各自で。

 

 

 

というわけで、とりあえず「怖い見た目」だと、

ほとんどの人は「良くない」という印象を得てしまいます。

これが、第一印象・最初の感覚ですね。

 

 

で、印象の補正ですが、

 

 

例えば、まあ人によるでしょうが、

「良心」から、「外見で判断するのは良くない」ときて、

ここで「良くない」という印象が薄れる感じ。

 

 

補正の感覚というのは、要はこんな感じです。

 

 

結論としては、

「別の新しい情報」が入ってきて、印象は更新されます。

 

 

 

他の例を考えていくなら、

例えば「接してみると優しい」とか。

他にも「ハムスターを飼っている」とか。

 

 

こういう「新しい情報」が入ってくるたびに、

その「怖い顔の人」の「良くない」印象は薄れていきます。

 

 

 

逆に「良くない」印象に「悪い情報」が追加された時、

例えば「よく怒る」とか「言動が荒い」とか。

こうなると「良くない印象が裏付けされる」ことになります。

 

 

 

 

 

ここで分かることが、補正には2種類ある点です。

一つが「印象を変更する」補正。

一つが「印象をそのままにする」補正。

 

 

ただ、これはあくまで結果論。

これ以前の話として、

いわゆる「姿勢」というものは存在しています。

 

 

 

 

 

この「姿勢」については一旦置いていておいて、

ともかくこのように「情報が追加」されていけば、

徐々に「実際へと近づいていく」感覚は納得できますよね?

 

 

 

というわけで『統計的な感覚の利用』は、

おおまかにはこんな感じ。

 

 

まとめると、「多くの情報」を得ていけば、

それなりに「精度の高い仮説」は得られるようになります。

 

 

というわけですので、この操作を「近づける」とします。

んで、ひとまずこれを答えとしておきますね。

 

 

 

 

 

でもまあなんとなくわかると思いますが、

これは確実にそうなるかと言われると、ちょっと微妙。

 

 

なにせ感じたものや言語には『解釈』がありますし、

なにより↑の「フィルター」の効果に言及していません。

 

 

ですので、感覚ではなくより論理的に、

詳しくこの「補正」について見ていきます。

 

 

結論としては、「肯定的補正」と「懐疑的補正」があります。

これは勝手に作った用語なので、説明は↓で。

 

 

 

 

 

肯定的補正

 

これは「印象を更新したくない」場合の補正のこと。

簡単に言うと「都合の良い情報だけ集める」感じ。

 

 

確認しておくと、

ほとんどの場合、第一印象と実体の差は大きいです。

なぜなら『かなり少ない情報』しか得ていませんから。

 

 

ですから、基本的に「印象」は更新しなければ、

「実際に近づいていく」ことはありません。

 

 

 

ただ、「偶然にも」印象が「実体・実際」に近い場合はあります。

そのレアケースに限り、「印象を変更しない」は正しい選択です。

 

 

 

ただ、ここでの問題の本質はそういう話ではありません。

結論から行くと、「人間は感情に振り回される」というのが、

ここでの重要な部分になります。

 

 

 

基本的な話として、人間は自分を正当化したがります。

この正当化の範囲は結構広いです。

 

 

というのも、「間違い」に関連する「与えられた情報」からは、

「不安・恐怖」という『避けたい感情』が呼び起こされてしまいます。

 

 

人はこの感情を避けたがりますから、

必然、間違いに関連する情報を受け入れるという選択より、

正当化をするという選択を選ぶ可能性が高くなります。

 

 

このような理由で、

人は間違いに関連する情報、勘違いなどをなかなか補正しません。

 

 

で、こういう状態に陥ると「フィルター」が機能してしまい、

「肯定する情報だけ」を受け入れるようになってしまいます。

 

 

言い直すなら、正当化が起きてしまうわけです。

 

 

 

そしてこのようなケースに陥る場合、

人は『嘘でも信じてしまう』ことがあるんですね。

 

 

というのも、自身を正当化したいわけですから、

都合の良い情報だけを受け入れるようになっています。

 

 

つまり「正誤」の優先度は、

「都合の良し悪し」よりも低くなっているわけです。

 

 

当然の話ですが、

こうなると『印象』は「変わらない」わけで、

ただその「印象を肯定するように」情報の中身は偏っていきます。

 

 

で、これが困難となれば、

当然、存在しない「嘘」も受け入れる必要があるわけで。

 

 

 

とまあこんな感じに、多くの人はこれをやってしまいます。

というか、やってしまわない人は恐らく存在しません。

 

 

そう、多くの人は『印象』をうまく扱えず、

そこから得られる「感情」に振り回されてしまってるわけです。

 

 

 

で、これをもっと詳しく説明する上で欠かせないのが、

やはり「フィルター」の存在。

 

 

大雑把に3つに分けると、

「受け入れたい」か「受け入れたくない」か。

もしくはその「どちらでもない」か。

 

 

人はこのような「姿勢」で情報を記憶するわけです。

この「姿勢・フィルター」は、印象の補正を語る上では重要ですよね?

 

 

 

なにせ、「新しい情報」が入ってきたとしても、

必ずしも「印象が補正される」ことで、

「実際に近づく」というわけではありません。

 

 

「見ない・信じない・受け入れない」など、

場合によっては「遠くなる」こともあり得ます。

 

 

なぜかというと、その情報に対して、

「信じる」場合と「疑う」場合があるからです。

その後に、「そのまま」か「変更」の処理が来るわけで。

 

 

 

判断に感情が介入してしまう人間にとって、

この「フィルター」の視点は避けては通れません。

 

 

これは「新しい情報」の『入力』の是非であるため、

「正常に記録されるのか」という部分に深く関わってきますし。

 

 

 

具体例でもこの感覚を補強しておきましょうか。

例えば「良いという感情を抱くもの」で考えてみると、

 

 

適したものとしては、例えば「情報源」とか。

具体的には「テレビ」とかで考えてみましょうか。

 

 

 

この例でなんとなく分かると思いますが、

人は「テレビの情報を嘘だと思わない」場合、

この情報源からの情報を「妄信」してしまいます。

 

 

つまるところ「嘘であっても信じる」場合があるわけです。

同様に、「明らかに変」でも「正当化してしまう」場合があります。

 

 

 

このような事例はありふれていて、

だからこそ人は「判断を間違える」上に、

どうしようもなく「理解し合えない」んです。

 

 

 

ともかくこのような、「印象」に対する『肯定的』な、

悪く言えば「妄信的」な補正も存在するわけですね。

 

 

 

で、このような補正を、肯定的補正と言います。

レアケースですが、正しい場合もあるので。

 

 

 

 

 

懐疑的補正

 

「印象を更新していく」場合の補正。

いわゆる「実際・実体に近づいていく」場合の補正のこと。

厳密には『印象の再構成』に当たる補正がこれ。

 

 

↑で出てきた「正常な記録」がこれになります。

要は「印象を正していく」補正のやり方になるので。

 

 

 

「合ってる」場合は「そのまま」になりますし、

「違ってる」場合は「変更」されます。

ただし、どちらも結果論です。

 

 

で、これを実現する一定の手続きが、

「印象の再構成」になります。

 

 

「印象の再構成」という同一手順の手続きを行った結果、

「印象が正しい」場合では「印象が作り直されてそのまま」になり、

「印象が間違っている」場合なら「変更」されることになります。

 

 

 

こんな感じの補正が、「懐疑的補正」になります。

 

 

感覚的な言い回しをするなら、

要は最初っから『この印象は合ってるの?』っていう感覚で、

分かんねーから作り直そ、って感じ。

 

 

このアプローチでは、前の印象は参考程度で、一切信じません。

 

 

 

 

 

この「疑問を持つ」という感覚は、

「真実性の追求」においては基本的なスタンスになります。

 

 

「真実性」を考える時、

『正しさの度合い』をある程度決めることや、

『疑う』ことで「視野を広げる」ことは必要不可欠ですので。

 

 

 

例えば「印象の形成」においても、

主に「2つの問題」をこのスタンスで解決しています。

 

 

その2つの問題点とは、

一つは「推論の不確実性」について、

もう一つは「情報源の不確実性」について。

 

 

 

これらを捻じ伏せて「真実・実像」に『近付きたい』のなら、

なにかを妄信することは得策ではありません。

常に、疑い続ける必要があります。

 

 

 

まとめると、『印象を実際に近づける』「懐疑的補正」とは、

既に在る「印象」を参考程度にし、「一切信用せず」に、

『新たに入ってきた情報』を加えて『印象を再構成』すること。

 

 

こんな感じになります。

形式はまとめて↓に。

 

 

 

 

 

以上、『印象の補正』についてはこんな感じですね。

ざっとまとめるなら、要は「正当化」と「正常化」の話です。

 

 

「正当化」は『実際』からは「遠く」なる可能性が高くて、

「正常化」は『実際』に「近く」なる可能性が高くなります。

 

 

 

 

 


まとめ

 

『印象』についてざっくりとまとめていきます。

まず「枠」である『印象』の感覚から来て、

次に『印象の補正』について見ていく感じ。

 

 

 

人は「思考」によって『印象』を形成する。

その操作は、『限られた情報』からの『帰納的推定』である。

ベースは「思考」における『創造』。

 

 

操作の順序としては、「限られた情報」から、

全体像を得たい時、「帰納的推論」という「抽象化」の後に、

その「抽象情報」を補正する情報を入れていく。

 

 

 

最初は当然、『第一印象』が形成される。

正しいかどうかはこの時点では判然としない。

なぜなら「演繹ではない」「帰納的な推論」だから。

 

 

 

この「印象」は『補正』される。

補正のされ方は主に「2種類」。

「肯定的補正」と「懐疑的補正」が存在する。

 

 

「肯定的補正」では、『第一印象』を肯定するように補正する。

その過程で、『再度』の帰納的推論が発生することがある。

このため、『実際』から離れていく可能性が極めて高い。

 

 

「懐疑的補正」では、『印象を再構成』する。

『新たに得た情報』と「前の印象を形成した情報」しか使わない。

単に「情報が増えるだけ」なので『実際』に徐々に近付いていく。

 

 

 

 

 

印象の形成

 

・限られた情報

 

I_{\mathrm{limited}}:=\{i_{\mathrm{observe}_1},i_{\mathrm{observe}_2},...,i_{\mathrm{observe}_k}\}⊂\mathrm{Target}

\displaystyle i_{\mathrm{characteristic}}∈I_{\mathrm{intersection}}⊂\bigcap_{i∈I_{\mathrm{limited}}}i

 

 

これの「 k 」は多くて「 2~5 」で、

ほとんどの場合は「 1 」になる。

 

 

つまり「 k=1 」の場合、

抜き出された「特徴 i_{\mathrm{characteristic}} 」は、かなり広い範囲のものになる。

そのため、客観性は低い。

 

 

 

・印象

 

\mathrm{Impression}:=\{I∈\mathrm{Observer}\,|\,i_{\mathrm{characteristic}}∈I\}

 

 

これは「抽象化」による『創造』の後に、

中身を「具体化」によって「追加」する操作になる。

 

 

この「追加」によって『無かったはずの情報』も追加されるので、

『実際』から離れてしまう可能性が発生する。

 

 

 

・第一印象

 

\mathrm{if}

I_{\mathrm{limited}}∩I_{\mathrm{relation}}≠∅

 

\mathrm{then}

\mathrm{Impression}_{\mathrm{first}}:=\{I∈(I_{\mathrm{limited}}∪ I_{\mathrm{relation}} )\,|\,i_{\mathrm{characteristic}}∈I\}

 

 

『印象』と「第一印象」は明確に異なる。

しかし↑のように、「印象は第一印象を含む」ので、

『結果的に』同一視される場合が多い。

 

 

要は「人は限られた情報だけで判断する」必要があるので、

なにかを見る時、「印象」を形成せざるを得ない。

 

 

しかし↑を大雑把にまとめると、

「印象」は「記憶を使って情報を補填する」ことで形成され、

「第一印象」は「限られた情報のみ」で形成される。

 

 

これらは同じではないが、「区別しない場合が多い」ため、

結果的に『印象』と『第一印象』は同一視されることになる。

 

 

 

 

 

肯定的補正

 

これは『第一印象を変更しない』補正になる。

「正当化」と言い換えても特に違和感はない。

 

 

これは、要は「追加(具体化)」の操作になる。

 

 

\mathrm{if}

i_{\mathrm{characteristic}}∈I_{\mathrm{new}}

 

\mathrm{then}

\mathrm{Impression}_{\mathrm{delusion}}:=\mathrm{Impression}_{\mathrm{first}}∪\{I_{\mathrm{new}}\}

 

 

やってることは「第一印象に合致する情報の追加」になる。

これは「実際」とは違っていても行われる場合がある。

 

 

感覚的には「都合の良い情報」を得る感じ。

だから、主に「自己正当化」で行われる操作になる。

そのため「妄信 Delusion 」と命名。

 

 

 

 

 

懐疑的補正

 

これは「印象の再構成」を行う操作。

基本的に「印象は実際と異なる」ので、これが必要。

『実際に近づける』操作と言い換えた方が的確かもしれない。

 

 

\mathrm{if}

i_{\mathrm{new}}∈\mathrm{Target}

 

\mathrm{then}

I_{\mathrm{update}}:=I_{\mathrm{limited}}∪\{i_{\mathrm{new}}\}

\displaystyle i_{\mathrm{characteristic}}∈I_{\mathrm{intersection}}⊂\bigcap_{i∈I_{\mathrm{update}}}i

I_{\mathrm{correction}}:=\{I∈\mathrm{Observer}\,|\,i_{\mathrm{characteristic}}∈I\}

 

 

簡単には、「限られた情報」の「追加」を行う。

「追加された情報」が『特徴を限定する』ので、

より「本質に近く」なる。

 

 

このため極端な「補填」は起こりにくくなり、

そのおかげで『無い情報』が追加され難くなる。

 

 

更には『実際』を把握するための「印象の精度」が、

「実際の情報の多さ」によって保証される。

 

 

 

感覚的には「あれはこういうもの」という感覚が、

「いろんな実例」から説明される感じ。

要は「説得力が増す」ってこと。

 

 

 

情報の比重も意識できる。

例えば「多くの信頼できる情報」が持つ特徴を持たない情報は、

印象を歪める嘘の情報である可能性が高いと判断できる。